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赤穂義士記念館/義士木像館(東京都港区・泉岳寺駅)

赤穂義士というと忠臣蔵の題材となった仇討ちで知られている。江戸城内の松之廊下で饗応指南役の吉良上野介に斬りかかった浅野内匠頭が、殿中での刃傷沙汰を咎められ切腹、やがて藩も改易となる一方で、なぜ殿中で抜刀することになったのかの原因は深く調べられずに相手の吉良上野介はお咎めなし、主君の無念を晴らすために家臣の大石内蔵助の率いる四十七士が浪士となって野に下り、やがて吉良上野介を討つ、というのが大筋である。

港区にある泉岳寺は浅野内匠頭の墓があり、墨田区の深川にあった吉良邸で仇討ちを終えた赤穂義士の一向が墓前への報告のために向かった寺で、一行は一晩の間にかなり長い工程を歩んだことになる。親族の仇討ちは許されていた江戸時代において、血縁者ではない家臣たちが仇討ちを実行したという稀有な例は当時も大きな話題となったという。結果的に彼ら義士はいくつかの大名家の預かりとなった後、武士としての扱いが尊重されて斬首ではなく切腹、彼らの墓も浅野内匠頭に付き従うように境内に残されている。

墓参りの際には線香を購入します 50本以上あるから1本ずつ供えたよ

線香を購入することで墓参りができる。大石内蔵助やその息子である大石主税をはじめ全ての義士の供養墓がある。中でも人気の高いのは歌舞伎でも採り上げられることの多い堀部安兵衛、その他には一番槍の間十次郎などがいる。正直ここに来るまで忠臣蔵のことをあまり知らなかったのだけれど、四十七士の中で一人だけ切腹せずに生き延びた人物である寺坂吉右衛門も死後ここに供養墓が建てられている。仇討ちの際に離脱したことで生き延びたこの寺坂、離脱した理由が不明で賛否両論ある人物として興味深い。また、事情があり仇討ちに参加できず、けれど自分の意志で仇討ち前に自ら切腹して意志を示したという四十八人目の義士である萱野三平もここに供養墓がある。個人的にはこの二人への思い入れが強い。

寺坂と萱野の墓は端にある

境内には赤穂義士記念館と、別の建物に義士木像館という二つの記念館が存在する。赤穂義士記念館の入口では討ち入りで使った陣笠がお出迎え。最初に映像コーナーで仇討ちの様子が紹介されている。展示室内には赤穂義士たち所縁の道具が展示されている。この赤穂義士の顕彰には榎本武揚らが尽力したというのも興味深い。幕末の最後まで幕府に殉じようとして結果的に生き残った榎本武揚の胸中やいかに。仇討ちのために資金を援助した商人の天野屋利兵衛(墓も境内にある)木像や、大石親子の木像もある他、赤穂事件絵巻や土佐光成による四十七士の絵もある。

赤穂義士記念館 1室だけど天井が高い

討ち入りの格好はドラマなどで紹介される服装ではなく、まるで火消しのようだったという。一番槍の間十次郎が持っていた木刀も残されており、「人を殺せば、死なねばなりません」と刻まれているのが印象深い。よく言われる浅野内匠頭が癇癪持ちの悪政を敷いていたという話とは裏腹に赤穂藩は治水に力を入れ、浄水設備は世界最古だったとも言われている。

義士木像館は向かいの2階 ぐるりと回廊を巡りながら木像を見る

向かい側にある木像館の方では鷲屋石欒やその弟子たちによる四十七士の木像が全員分すべて展示されている。特に興味深いのは人気の堀部安兵衛や堀部弥兵衛、村松三太夫と一緒に前述した寺坂吉右衛門や萱野三平が同じエリアにまとめられていること。彼らも人気のメンバーだったのだろうか。仇討ちに行けず切腹した萱野三平の顔だけは顔白くされているのもまた思い入れがあるというもの。

境内には赤穂義士ゆかりの史跡も多い

境内にあるトイレは洋式。境内には血染めの梅・石や首洗いの井戸といった多くの赤穂義士に所縁あるものが残されている他、今はなぜかウィーンの国立民俗博物館に所蔵されている梵鐘の明治以降の現物(明治以前の梵鐘がウィーン)が残されていたりと見どころがいっぱいのスポット。おそらく12月ともなれば観光客が増えて行くに違いない。

忠臣蔵ちゃんと観てみようと思った

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