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問いに答える。

水曜日。夜。

友達がフィリピンのマクタン島の綺麗な海の写真を撮って見せてくれた。
仕事のついでに立ち寄ったらしいのだけど、こんなに美しい青の世界があるのかと感動したと。

本当に綺麗。
私もいつか行ってみたいかも。

このnoteで私はよく人の生死に関する話を書いている。
今日も少しそんな話。

某患者さんからこんな話をされた。
「こんなこと言うと不謹慎と思われるかもしれないのですが」という前置きがあってから、「自ら命を絶つ方法っていくつかありますよね。飛び降りたり、ロープや紐を使ったり、あるいは特急列車に飛び込んだり…。
今もたまに考えてみるんです」と。

この患者さんは脳の病気の後遺症を抱えていて、一時は軽度の鬱と希死念慮があった。
最近はだいぶ落ちついてきてるように思えていたのにもしかしてまた出てきたかと思ったら、「違うんです。死にたいとかは今は思ってなくて…。ただ、そんなふうに具体的に死ぬことを考えて想像して、"いつでも現実的に死ぬことはできる"と思えたほうが生きることをもっと頑張れるような気がするんです」と。
それを聞いて、ああ…そうなんですね、と。
その患者さんは、「でもそういう思いはやはり捨て去るべきでしょうか?」と私の意見を聞きたがった。

私は、捨てなくていいと思うと答えた。
大病によって死の危機に瀕したことのある人が死を身近に意識しながら生きるのはごく自然なことだと思うし、なんであれそう思うことで自分の心が収まるところに収まって落ち着くのであればそれは負い目を感じるようなことではないと思いますよ、と。
そんなふうに答えたら、パッと表情が明るくなり、良かったです!と返事があった。

時々、こんなふうに生と死の倫理に関わるような、哲学的ともいえる問いを患者さんから投げかけられることがある。
とはいえ、私は患者さんと呼ばれる人たちよりもだいぶ歳下で、何か知ったようなことを言えるような人生もまだ歩めてはいない若輩者なのだけど…。
でも、こんなふうに聞かれた時に、口ごもったり話を流したり、あるいはことさらに教え諭すような意見を言ったりはしないようにしている。

その人の話の裏側にある、目には見えない感情や思いを慎重に汲み取りながら、今まで自分が学び考えてきたことの中からできるだけ率直な意見を、言葉を選んで伝える。
自分の考えがまとまってなかったり考えきれてない時には次回までに考えてお伝えしますねと言う。
それで怒る人はいないし、考えた結果を楽しみに待ってくれたりもする。
患者さんたち、みんな優しくて。

今回の患者さんも世間一般的な感覚や意見なんかを知りたいわけではなく、あくまでも私がそれについてどう思うかを知りたかったのだと思うから…。
だからまぁ、あの返答で良かったのかなとは思う。
少なくともああいう質問をしても大丈夫な人だと思ってはもらえているみたいで、それは嬉しいことだなと。
願わくば、どんなことでもとりあえず聞いてみようと思ってもらえるような存在でありたいなとも思う。

患者さんとの出会いから学ぶことって本当に日々たくさんあって。
実はつい最近旅立っていかれた患者さんの話もあるのだけど…
長くなってきたし、これはまた今度にしようかな。。

徒然。


明日もきっと良い一日。



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