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過去からのお手紙。

寝ても寝ても眠いのは積もり積もった疲れを癒そうとする身体の反応なのか…
どうなんやろう。



前回から、このnoteの雰囲気を良くするために、過去に書いた記事のなかから気に入ってる記事を再掲してみるキャンペーンを実施中(詳しくは二個前の記事を参照)。

今日は遡ること10年ほど前の記事を載せようかなと。。
当時友だちに薦められてブログをしていて、この時期の記事がとても多くて…(ちなみに今は自分が見れるだけになってて公開はしていない)。

10年というとそこそこな歳月にも思えるけど意外に自分の本質は当時からあまり変わってなくて、そのことに安堵と、ほんのちょっとの不安を感じたり。(ちょっとか?笑)
でもなんだかやっぱり励まされる気持ちになることが多くて。
読み返しながらこれは昔の自分が今の自分に向けて送ってくれた手紙なのかもと思ってみたりもある。

以下、10年前の3月に書いた記事「いつでも」と「徒然」。(写真も当時のもの)

良かったら。

「いつでも」(10年前の3月19日の記事)

先日、友人のサキちゃんと京都の西陣界隈を散策した。
出町柳で降りて、北野天満宮へ。
まずは満開の梅の下でお茶して、それからおいしいご飯を食べに行って・・・
その後、釘抜き地蔵というお地蔵さんがまつられているところへ立ち寄った。
すべての苦を抜き取ってくれるというお地蔵さんで、ここがすごく良かった。

陽だまりの中、シーンと空気は澄んで静かだった。
そこにいると遠い過去に見た景色が呼び覚まされるような、そんな懐かしい感覚もあって。
この感覚は何かなぁと思い出そうとするんやけど、思い出せそうで思い出せない。
青空と、陽だまりと・・・そこに誰かいる。
でも誰・・・?
わからない。
笑ってる。
たぶん、私にとってとても大事な人。
なんとなく、そんな気がする。
そんなイメージ。


二人で近くの台に腰掛け、しばらくぼんやりとしていた。
何を話すでもなく。
そしたらいつの間にか一人のお婆さんが私たちの隣に腰掛けていて、話しかけてきた。
お婆さんが話していたこと。
年齢は86歳で、雨の日も雪の日も欠かさず釘抜き地蔵を参っているということ。
若いころは体の弱い旦那さんに代わって西陣織の工房で必死に働き
7人の子どもを育てあげたこと、
苦労は必ず報われるから簡単に諦めたらあかんで、ということ。
うんうん、と聞いた。
サキちゃんは時折、絶妙な相槌を打ってはお婆さんを喜ばせていた。
三人でいろんな話に花を咲かせて笑った。

ひとしきり話した後、お婆さんが、「あんたら、手見せてみ」と言うので
手を差し出すと、私たちの手を取り、「綺麗な手やなぁ」と言った。
つづいて自分の手を見せて、「歳とったらこんな皺だらけになってもうた」と。
お婆さんの手は私たちよりはるかにゴツゴツしてて、たしかに皺だらけだった。
私が、人生が刻まれた手ですね、と言うと、
お婆さんは少し照れたみたいに笑って、「そうかぁ。こんな手恥ずかしいわ」と言った。
ご利益がある気がします、と、お婆さんの手を思わず自分の両手の平に収めてギュッと握ったら、
お婆さんは一瞬言葉に詰まり、
「あんたらホンマに優しい子やなぁ」と言って泣き出してしまった。

お婆さんは帰り際、「あんたらは私の孫やからな、つらいときはいつでもここに来たらええ」
と言ってくれた。
この”いつでも”っていうのは、本当に”いつでも”なんやろうなと思うと嬉しくなった。

京都にまた一つ好きな場所が増えた。


・・

帰り道、かつての職場で一番の親友を突然亡くし、どん底まで落ち込んでたときのことを思い出していた。
あの頃、私の心はバランスを崩し、パソコンを見ながら突然涙が止まらなくなったりとボロボロだった。
ある日見かねた上司から半ば強制的に連れていかれたのがとある心療内科で、そのとき話を聞いてくれたのは50代半ばくらいの女医さんだった。
先生はひとしきり私の話を聞いた後、私に「つらくなったらいつでも連絡してくれていいからね」と言った。
そして名刺の裏に自分の携帯番号を書いて渡してくれたのだった。
あのときの言葉にならない安心な気持ちを今でも思い出せる。
結局、書かれた番号に電話することは一度も無かったのだけれど。

釘抜き地蔵で出会ったお婆さんの「いつでも」はあのときの安堵感に少し似ていた。


・・

そういえば今、習ってる楽器で『いつも何度でも』を弾いている。


「呼んでいる 胸のどこか奥で
いつも心躍る夢を見たい
かなしみは 数えきれないけれど
その向こうできっと あなたに会える

繰り返すあやまちの そのたび
ひとは ただ青い空の 青さを知る
… 」


この曲を弾きながら、亡くなった彼女のことを思い出し、窓の外の空を眺めてみたりする。
そしてもしも生まれ変わったなら
あの青空のかけらになりたいなぁなんて想像してみたりもしている。


♢♢♢

「徒然」(10年前の3月20日の記録)

昨日書いた、生まれ変わった場合の願望について、
刹那的に思われるかもしれないけど
結構本心やったりする。
青空のかけらか、あるいは水のしずくか、音楽の粒か。
もっと言うと、ぬいぐるみになりたいと思ったこともある。
アザラシのぬいぐるみのしろたんに仲間入りしたいなって。
でもそれを人に言ったら、「しろたんの世界も案外厳しいかも知らんで。しんどい時でも笑顔作らなあかんしな」とかって非常に現実的な(?)意見を言われたのでやめにした。笑。

最近、というか、前からやけど、
もっと無欲になりたい。
水のしずくも青空のかけらも音楽の粒も、本当に儚い存在で
個体としての主張がほとんどないのがいいなって。
でも、キラキラしてて綺麗で。
たくさんたくさん集まって、流れを作る。世界を包み込む。心を癒す。
そういうのが結局のところ一番美しいものな気がする。
人間である限りそれは絶対に無理やから
だからときどき私は、人間であることに嫌気が差す。
なーんか嫌やなぁって。

今あるものだけ信じていけたらいいのにね。
なんでもっと欲しがるんやろう。
上に進もうとするんやろう。
前に向かおうとするんやろう。


・・なんて。
こんなこと言ってても、やっぱり頑張ろうとか前を向こうって思うんやけどね。
とりあえず今はこの厄介な人間として私は生きるしかないんやなぁ。

いやいや、積極的に人間を謳歌して生きるのだ。
よし。


あー、現実逃避。笑

今日は勉強する!




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