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視覚障害のある奈良さんがこれまで他人から言われて傷ついた言葉はありますか?

障害のない人が障害者に対して障害について尋ねるとき、
「失礼なことを聞くかもしれませんが・・・」
と必ず前置きをしてから障害について尋ねてくる。これはとても面白いと私は思っている。なぜなら、私に対して障害のことを尋ねると言うことは何も失礼なことではないからだ。確かに、
「失礼かもしれませんが、奈良さんの体重を教えてください」
と言われたらさすがにびっくりする。そして、教えたくない。笑
私にとっては、出身地を尋ねられたり、趣味を尋ねられたり、そのぐらい質問に答えるときと同じ感覚で障害のことを尋ねられたときに答えている。この私自身の認識と、周囲の人たちとのギャップが面白くてたまらないのだ。

もし、あなたが、
「失礼かもしれませんが、あなたの趣味を教えてもらってもいいですか?」
と聞かれたら、どう感じるだろうか?多分、
「そんなに気を使わなくても、私の趣味のことぐらい話しますよ!」
と感じるのではないだろうか?

そんなわけで、多くの人が障害者に対して聞いてはいけない失言ポイント、あるいは、地雷ポイントはどこにあるのか?を知りたいと思っているのだろう。特に、大学生からは
「これまで生きてきて、奈良先生が言われて嫌だったことや傷ついた言葉はありますか?」
と言う質問が多く投げかけられる。障害に興味があり、将来的に障害者を支援する職業につきたいと考えている学生たちは、きっと、自分たちが障害者に対して失礼な態度を取らないようにするために学びたいと思いこのような質問をするのだと思う。

結論から言うと、言われて嫌な言葉や傷つく言葉と言うのは障害の有無に関係なく人によって異なるため、障害者にこれは言ってはいけません!と言う鉄板ルールはない。
もし、あなたが何かを障害者に対して言ったときに、相手が怒ってしまったり、傷ついてしまったりしたのだとしたら、素直に謝ればいいし、何がそんなに嫌だったのかを尋ねてほしい。ある障害者に言った言葉で叱られたからといって、他の障害者も同じとは限らない。そして、相手を本当の意味で理解したいと思うのであれば、相手が怒ったり泣いたりした時こそ、なぜそうなったのかを尋ねてお互いに理解を深める事が大切なのではないだろうか。

ちなみに、先ほどあげた体重に関する質問も、私は聞かれて答えようとは思わないが、自分の体型に自信のあるモデルさんや柔道選手で何キロ級と周囲が自分の体重を知っていることが当たり前の生活を送っている人にとって、それは失礼にあたらない質問だろう。このことからもわかるように、一概に何がNGワードとは言えないものなのだ。

とはいえ、障害のない方々の多くが、
「奈良さんはどんなことで傷ついたのか?」
私の体験談を知りたい!との事なので、今でも覚えているとても悲しくて辛くて憤りを感じた体験も紹介しよう。

それは、息子が生まれたときのことである。
息子を産む病院には、事前に何度も自分には視覚障害があることを伝えていた。しかし、見た目では障害がないように、あるいは、障害があったとしても非常に軽度に見えてしまう私の見え方から、妊娠中はそれほど視覚障害があるということがその後の育児に大きな影響を及ぼす可能性を看護師や助産師は想像ができなかったのだろう。
だから、赤ちゃんを産んだ後、助産師や看護師がおむつの変え方やミルクのあげ方、授乳の仕方を私に伝えても見えなくてできないと言う様子を見て

「この子は誰が育てるのですか?」

と言われたのだ。誰が育てるも何も当然私が、私と夫が育てるに決まっているではないか!

私は自分が赤ちゃんを産む前に、視覚障害のあるお母さんやお父さん経験者に話を聞く機会もあったし、実際に子育てをしている視覚障害のある先輩パパママとのつながりもあった。だから、見えないと言うことで育児に困る事はあったとしても、私自身が母親として育児ができない事はないと思っていた。看護師や助産師たちは、視覚的に見て行う赤ちゃんのケア方法しか知らない。だから、その方法でできない私を見て、

「このまま退院させたら赤ちゃんがネグレクトで死んでしまう!」

ぐらいに思っていたのであろう。赤ちゃんを産んで3日目にして、病院に母親を呼び出された。さらに、その後は、

「赤ちゃんをナースステーションで見ているから退院後に支援してくれるところを探しなさい!」

と言われ涙を流しながらいろいろなところに電話をした。電話をした記憶があるのだが、どこに何を相談したのかほとんど覚えていない。とにかく、悲しかったし、屈辱的だった。

私は生きていて自分に障害があると感じることが最近ではほとんどない。障害を意識しなくても生きていける日々なのだ。ところが、この赤ちゃんを産んだ時から入院中の数日間はひどい地獄だった。久しぶりに自分は障害者であるということを痛感させられたのだ。目の見えないお母さんには育児はできないと言う強烈な彼らの障害者に対するできないと言うネガティブな印象が伝わってきた。私は産後間もない時期だったので身体的にもボロボロ、精神的にもボロボロだった。赤ちゃんを産んで、これから楽しく幸せな育児の日々が始まると言うときだったはずなのに…。

実際には、この地獄の病院から退院してから本当に幸せな育児生活が始まった。看護師や助産師は私がオムツ替えの時にオムツ交換の目安となる薄い線が見えない事を心配していたが、そんなの触っても臭いでもわかるものだ。毎日毎日、何回も何回もオムツを交換していればその感覚はすぐにつかめてくる。何より赤ちゃんが泣いて教えてくれるではないか。さらに、哺乳瓶にも一工夫すれば視力の弱い私でもちゃんと粉ミルクを哺乳瓶で作ることができた。例えば、100 CCのところに黒いテープを巻いておけば白いミルクを入れたときに、コントラストの違いでちゃんと測ることができる。粉ミルクもスプーンで計量するタイプではなく、キューブ状になっているものを使えば何グラム入れたかというのも個数を数えるだけでできる。私たち視覚障害者は見える人と同じ方法ではできないけれど、見えないなりに工夫すれば見える人と同じようにできることがたくさんあるのだ。

私が嫌な思いをしたり傷ついたりする瞬間。それは社会が障害者と言う私を拒絶し、何もできない人間と言うレッテルを貼って扱う時だ。ありがたいことに、今、私の周りにはそのような人は1人もいない。だから、私は幸せを感じながら生きているのだ。

障害のない皆さんに伝えたいこととしては、障害者と言うだけで何もできない人と思わないで欲しい。思ってもいいけど、決めつけないでほしい。一緒にどうやったらできるか考えてほしい。私たちができるまで余計なおせっかいはしないでほしい。そして何より、お互いの気持ちを尊重するようなコミュニケーションをとってほしい。

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