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『大化の改新の地 難波宮』展覧会


大阪の大阪城の近くに『大阪歴史博物館』という施設があります。

この建物のある場所は、かつて「難波宮」と呼ばれた日本の首都のひとつが存在した所であり、のちの大阪のシンボル大阪城の建設を経て、今でも大阪のランドマーク的な場所です。

常に歴史の中心であったこの場所に、歴史を知り考古学を学ぶ場所として大阪市が作った歴史博物館。大阪歴博です。

かつて大阪湾はもっと内陸まで食い込んでいたのを埋め立てて、現在のような都市に仕上がっているわけですが、当時の海辺にあった倉庫施設の一部を当時のとおりに復元し、地下の遺構が見えるように設計したりして、まさに難波宮前後から大阪城、そして現代に至るまで歴史が一本の糸でつながっていることを目で見せてくれる場所です。

ここで『大化の改新の地 難波宮』と題された展覧会が開催中です。(8月26日まで)

大化の改新といえば、あの蘇我入鹿が首チョンパされた大事件!

のちの天智天皇が誕生する大きな一歩を踏み出した事件ですから、奈良ファンだけでなく、考古学・歴史マニア、誰もが垂涎の大イベント。

これに関する展覧会があるというなら行かねば…ということで行ってきました。

そしてすごくすごくおもしろかった!

難波宮という場所がどういう場所か、そもそもどんな土地で、どんな風に発展してきたのか。

そしてこの場所で「大化の改新」が行われた意義とは…

そういうことが色んな資料を元にわかりやすく説明されていて、とっても為になりました。


最高な展示①どこかの小学生の社会のノート


まず爆笑だったのが、「大化の改新とはなにか? 私達はどんな風に学んできたのか?」とうことを示す展示でした。

なんとどこかの小学生の、社会科のノートの展示が始まりだったのです!

めちゃくちゃ丁寧に、大化の改新に至る出来事、そのあとの政治がどうなっていったのか…が書かれていて、すごい見やすい、わかりやすい!

下手な指南書読むよりよっぽどきちんとまとめられたノート!

645年と書いてルビで(ムシゴロシ)って書いてるし、その後の平城京遷都はちゃんと710年(ナットウ)って書いてある!!

大化の改新の前夜は「聖徳太子の死後 蘇我氏が勢力を伸ばし大きな権力を持つ 天皇をしのぐほど」と書いていて、簡潔かつ正しい!

そして大化の改新以後、土地・人民はすべて国のもの
農民は土地を耕し税を収める
からの
聖武天皇の時代へ移り
仏教の教えで安らかな国を
という流れがわかりやすい図とともに示されていて、いやーこの小学生頭いいわ! 

今では蘇我入鹿首チョンパ事件を「乙巳の変」と呼び、大化の改新はその後の政治改革であって…と分離していますが、当時(1980年代?)はあの事件を大化の改新と呼んでたんですよね。

聖武天皇の時代の国難である災害を(日照り)と書いていて、うーむ、日照りか…というのも微笑ましい。

このどこかの小学生のノート、見ごたえ十分です。


最高な展示② 多武峰縁起絵巻

蘇我入鹿が首チョンパされた大事件は、彼の首がびゅんと飛び、そばにいた皇極天皇を仰天させました。

そのシーンがそのまま描いているのが「多武峰縁起絵巻」です。

この本物が出陳されていて、その大きさ、色の鮮やかさにびっくりしました。

談山神社が所蔵しているのですが、奈良国立博物館が預かっていて、めったに見ることはできません。
それが今回やってきている!

私が見に行った時はまだ前期展示で、中大兄皇子と中臣鎌足が語らっているシーンの方でしたが、後期には蘇我入鹿首チョンパシーンが出るはずですので、ぜひ、本物を見てみてください。


偉大なる都 難波宮

今回の展示の一番の肝は、なんといっても『難波宮』が存在した意義について触れているところです。

難波宮のある場所は、古くから交通の要所であり、朝鮮半島や中国大陸からやってくる人々を受け入れる場所でした。

それを示す土器が多く出土されており、なによりも海岸線近くに作られていた倉庫跡が、当時もたらされた富の集積所として活用されていたことを示しています。

人も多く住み、彼らの生活の跡も残り、ここが都になったのは、なるべくしてなったという感じがします。

『乙巳の変』の舞台は飛鳥。
当時の政治は奈良で行われていました。

しかし蘇我氏を排除してから先の政治は、新しく活気的なことが始まることを示すべく、新しい土地で新システムを稼働させることを知らしめる必要がありました。

その新しい場所こそ難波宮だったのです。

現在飛鳥を歩くと、かつての「宮跡」の遺跡にたくさん出会えます。

聖徳太子様や推古天皇が活躍していた時代、天皇が住み政治を行う場所は、飛鳥でした。

当時の王宮は天皇一代限りだったようで、天皇が崩御し代替わりすると、あらたに宮を造営していたようです。

つまり天皇の数だけ政治の場所があり、その形は狭い場所に色んな建物をきゅうきゅうと詰め込んでいたと想像されます。

難波宮は違います。

中国をモデルにして、広い空間を確保し、天皇の住まいと大極殿、朝堂院という儀式と政治のための広場を計画的に作りました。

のちに藤原京、平城京と都は場所を移して造営されていきますが、どちらも中国の都をモデルにした、壮大なスケール感を持っていました。それを最初に実現したのが難波宮なのです。

『日本書紀』によると651年に孝徳天皇によって「難波長柄豊碕宮」と名付けられ、新生日本の出発点になりました。


悲劇の孝徳天皇

孝徳天皇は、後に天智天皇と呼ばれる方の叔父にあたるひと。
天智天皇の母、斉明天皇の弟です。

その息子の名は有馬皇子。

天智天皇の謀略により、死に至らしめられた人物です。

天智天皇は、自分の政治をすすめるために、あえて叔父や母を即位させたといいます。彼らを矢面に立たせ、政治的な失敗は天皇の責任に、良い結果は自分の手柄にするためにあえて即位しなかったのだと。

真偽の程はわかりませんが、乙巳の変の後、退位した皇極天皇(天智天皇の母)の跡を叔父に継がせて孝徳天皇としたけれど、その政治の舞台である難波の宮を作ったのもつかの間、また政治の舞台を飛鳥に戻します。

孝徳天皇は、せっかく造営し、新しい政治が始まったばかりの難波宮を放棄して飛鳥に帰ることに異をとなえました。

しかしあろうことか、そんな孝徳天皇をひとり置き去りにして、天智天皇をはじめとした重臣たちはすべて飛鳥に戻り、その中には孝徳天皇の皇后も含まれていました。

孝徳天皇は失意のうちに没したと伝わります。

こうしてせっかく造営されたのに、短い期間しか活躍できなかった難波の宮は、現在前期難波宮と呼ばれ、このあと聖武天皇が再び宮殿を再利用するに至るのを待つことになります。


ザ 大阪の中心地

かつて大阪は、その大半が海だったので、上町台地と呼ばれる場所くらいしか人の住める場所はありませんでした。

やがて埋め立てが進んで、今の大阪に発展していくのですけど、すべての始まりである場所こそ、大阪城もある現在の大阪歴博のある場所なのです。

ここからすべて始まったし、ここだからこそ難波宮が造営されたのです。

この難波宮跡のことを知るのはとても意義深いし、何よりもそれがどこだったのかということ、まさに!展覧会が開催されている「ここ」この場所なのです。


ぜひお運び頂きたいし、大阪の方は特に行くべき展覧会だと思います。






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