見出し画像

奈良に住むという選択⑦ド迫力の空間演出! 平城京

平城京への遷都は710年ですが、その前段階から審議が色々あった上で、遷都が決行されたようです。

時の天皇は元明天皇。 女帝でした。

彼女は夫が草壁皇子というひとで、いわば皇太子妃の身分です。 ただ息子が天皇(文武天皇)になったので、国母になりました。

夫に先立たれ、天皇になった息子の跡を継ぐ形で天皇になりました。

元明天皇は、遷都にあまり積極的ではなかったようです。

続日本紀という書物に 「大臣たちが遷都した方がいいって言ってるし…だからするけど、(私的にはしなくていいと思うのだけど)というような内容のお言葉を述べてらっしゃいます。

遷都ってつまり国の引っ越しですが、めちゃくちゃ色々大変です。

お金だってかかります。 土地を整地し、道を作り、新しい建物を建てて… 莫大な人とカネがいるのです。

そして元明天皇にとっては、全く知らない土地。 もっと言えば、亡き夫草壁皇子のお墓からも遠くなるのです。女帝の心中は、さぞ複雑だったことでしょう。

それでも遷都はしなければならないのです!と藤原不比等は問いたのかもしれません。

今度こそ、中国の王朝も採用しているー南北に中心軸が敷かれた、天子南面すという言葉通りの都を作る! という決意があったのだと思われます。

なぜならば、天皇を中国の皇帝のような存在なすること、それが、大化の改新いらい、天皇とタッグを組んで国づくりを進めてきた藤原氏の悲願だったからです。

いま、平城京に遊びに行くと、復元された大極殿や朱雀門が見えます。 徐々に復元が進むのでしょうが、それにしたって土地がめちゃ広いのに驚かされます。

天皇のおわす大極殿の前には、巨大な広場があったといい、そこに家臣たちがずらずらーっと並ぶのです。

天皇という唯一無二の存在を空間で示すこと。 平城京はそんな風に設計されてます。 そこで天皇は北の端にいる。

これはつまり、天皇は北極星の化身だと。 世界の支配者だと言っているわけです。

天皇だけが、暦を作り時間を規定することができる。 人智を越えた特別な存在だからです。

そういうことを体現した上で、律令という仕組みで国を動かしていく。 藤村不比等は、律令の整備に尽力したといわれる人です。

藤原京から平城京への遷都が動き出したのは、708年頃。この時に平城京遷都の詔が出てきます。

この時すでに大宝律令が制定され、いよいよ中央集権国家への枠組みが整おうとしていました。

満を持して、国の首都機能もふさわしい場所へ!と考えられたのかもしれません。 

そしてそこに君臨するのにふさわしい皇子が生まれていました。 

後に奈良の大仏さんを建立する聖武天皇です。


お読みくださりありがとうございました。

この記事は無料で読めますが、よかったらご支援よろしくお願いします。

ここから先は

0字

¥ 500

奈良でガイドをしています。これからもっとあちこち回っておもしろいガイドを提供します。ご支援どうぞお願いいたします。