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弥生時代の宝・仏とともに現代に

ちょっとすごいニュースが飛び込んできました。

東大寺宝冠に弥生時代の勾玉か 1000年受け継ぐ?
20205/11 日本経済新聞

内容をそのまま日本経済新聞から引用する

『東大寺法華堂(奈良市)の本尊・不空羂索観音像(国宝、8世紀)の宝冠を飾る1万数千点の玉類に、弥生―古墳時代のガラス玉が多数使われていることが分かり、分析した中井泉東京理科大教授(分析化学)らが27日、発表した。
中でも勾玉(まがたま)1点の成分は、弥生時代に多く輸入されたガラスの特徴を示しており、最も古く考えると、約千年間、権力者に代々受け継がれた"お宝"が宝冠に使われた可能性もある。
宝冠を作らせた人物は不明だが、共同研究者の井上暁子東海大非常勤講師(ガラス工芸史)は「新品だけで間に合わせることも可能だったが、高い身分の人が特別な思いを託して先祖伝来の貴重な宝物を冠にささげたのだろう」としている。
中井教授らは今年7月、エックス線やレーザー光線を照射する方法や、目視などで宝冠の玉類の種類を分析。6割が奈良時代に作られた鉛ガラスだったが、3割が弥生―古墳時代に輸入されたアルカリガラスと判明。残り1割は翡翠(ひすい)や水晶、琥珀(こはく)などであることも科学的に初めて明らかにした。〔共同〕』引用ここまで


東大寺には大仏さんの居るところ以外に沢山お堂がある。
その中のひとつ法華堂というお堂があって、「三月堂」とも呼ばれて親しまれている。
そこに安置されている仏さまは、ゴージャスな宝冠を戴いているのだ。
沢山の宝石がはめ込まれていて、その数1万点以上!
仏さまもすごいけど、その宝冠だけでもスペシャルにすごい像なのだ。

この宝石のひとつが、弥生時代から伝わるものだという研究結果が出たという。

弥生時代とは何か?

簡単に歴史を振り返ると・・・

だいたい紀元前5世紀頃、日本は縄文時代だった。人々は狩猟採集をして暮らしていたという。

縄文時代の終わりくらいに稲作が入ってきて、紀元前3世紀くらいにドーンと流行した。この辺が弥生時代である。

稲作という定期的に収穫がある事業をかさねることで、冨がもたらされた。
富の発生により身分が生まれ、支配者と支配されるものができた。

支配するものは稲作を差配するものとして、自分たちに従う者たちを守るため、堀をめぐらして武装し、集落を作った。九州にある吉野ケ里遺跡などはその代表である。

こうした人々の集合体を「クニ」と呼び、当時いくつもあったクニ同士が戦い、争っていた形跡がある。青銅でできた矢じりで射抜かれた骨が出てきているし、当時の中国で書かれた書物に「倭の国(日本)メチャ争ってる」と書かれている。

こういう争いを鎮めたのがヒミコで、彼女が生きていたのが3世紀くらい。

そのあとヒミコのあとを受けついだ・・かどうかはわからないけれど、大和王権というのが誕生して、現在の皇室に続く「天皇」が君臨する世の中になる。

つまり、「稲作」をベースに人々が定住し、管理され、国家という枠組みの中で生きるような生活スタイルに変っていった。この萌芽が見られるのが弥生時代である。

ニュースの法華堂がいつ建てられたのか、詳しい年月日はよくわからない。
ただ、752年の東大寺山堺四至図(さんかいしいしず)という地図にすでに載っているので、752年以前、700年代の初めころに建てられたのではないかと言われている。

だとすれば、安置されている仏さまもそのくらいには作られていると思う。

西暦700年当時、弥生時代ってだいたい1000年くらい前だ。

まだ日本が倭の国と呼ばれていたころ・・ヒミコが君臨していたころ・・もしかしたらその前・・書物にも残っていない、でも当時ブイブイ言わせていたクニの王が・・最高の宝として大事にしていた(かもしれない)勾玉。

それが受け継がれ・・もしかしたら貴重ゆえに贈り物にされ・・法華堂を作った時そこに安置されて仏さまを飾るものとなった。(かもしれない)

そしてそして、法華堂は東大寺の中で尊崇を集め、現在まで生き残ってくださった。
奈良も源平の合戦の時とか、戦国時代とか、戦火を潜り抜けてきた歴史がある。そんなことがあっても守られた。

結果的に弥生時代の石が仏とともに西暦2000年の今まで伝わったのである。



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