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差し込む光とともに

1年前もここで泣いていた。
7月の終わりの西日は妙に寂しさを増させて、私は1人ベランダで立ち尽くしていた。

2021年の夏、社会人生活を3年と少し過ごした場所を離れて違う街にやってきた。
東京であることには変わりないし、職場からの距離はそんなに変わらない。それでも、その街を離れることは、初めての東京に戸惑ったりたくさんの刺激を楽しんだりした日々とも、近くに住む人たちにお散歩しようと気軽に誘うことも、お気に入りのカフェに週1で通うことも、当時お付き合いしていた人と家で会うこともなくなることを指していた。

それでも容赦なく生活はスタートしていった。越してきた街に馴染めるのかも、次一緒に住む人とうまくやっていけるのかもよく分からないけれど。
仕事がリモートだった時期だから、1日を家で過ごしていた。定時を迎える時間帯に左側から優しく西日が差し込む、そんな部屋だった。

その光に誘われて、仕事の手を止めて、ベランダにサンダルとマグカップを運んだ。しばらく西日を眺めていたら自然と涙が出てきたのを、今でもはっきり覚えている。
寂しいとか不安とかそんなものをいっぱい抱えながら、ただ静かに涙を流して、誰にも言えないままでいた。


そこから季節を経て、出社になり、日の入りの時間が変わったりして、前みたいにベランダからの景色をじっくりみることはそんなになかったように思う。その街での生活にも慣れて、存分に楽しんでいた。
たくさんの思い出を部屋中に染み込ませながら季節を4回変えて、また夏が来た。その頃には一緒に住んでいた人と別々になることを話して決めていた。その決断自体はものすごく清々しかったのだけれど、やはり住む街や生活というものが変わるのは何回味わったとしても切ない。


7月の終わり、自宅で仕事をしていた私の左から懐かしくて切ない光が差し込んできた。あ、あの時の光だ。まるで久しぶりの人に会うかのような気持ちで導かれて、ベランダに置いたサンダルを履いて、ただ今目の前にある太陽を眺めていた。気づいたら、また泣いていた。
「ああ、またひとつ変わっていくのだなあ」

当時と全く同じとは言わないけれど、その景色が1年前の残像と変わらなかったように思う。同じ景色を目の前にして、1年でこんなにも抱いている感情が違うものかと愛おしくてたまらなくなった。私も生きているんだなあと。



何かを手放すという行為はどこか心地がいい。自分の中からいらなくなったものから離れていくということだから、自然と身も心も軽くなるし、その分新しい必要なものが入ってくる。
それでもその手放すものたちには愛着があるからこそ、離れるタイミングはとても切ない。

西日を眺めながら自分の感情の旅をして、私はまた一つ大きくなった気がする。あえて触れなくてもいいものなのかもしれない。それでもじっくりあえてその傷に触れてみたくて、優しい光に包まれながら向き合ってみた。もう大丈夫だ、私はこの西日の景色を思い出してもただの切ないだけでは終わらない。



8月の中旬。日差しがより強くなった。セミは大きな声でうたっている。大好きな人たちからのより一層の愛を受けて、また新しいこともたくさん動き出している。

今私が住んでいる家は朝日がよく差し込む。その景色を眺めて自然と笑顔になる。
今日もまた新たな1日が始まろうとしている。



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