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【アイマス】向こう側の君を愛するために【黛冬優子】

 サンタクロースは素晴らしい幻想である。
 私たちは(程度の違いはあるにせよ)幼少期のどこかでこの髭爺を無邪気に慕い、クリスマスの夜には窓の向こうに彼を想い、それがプレゼントという物質的快楽で報われたことに狂喜し、いつか幻想が崩れる日まで毎年の営みとして繰り返す。サンタクロースなどいない、と気づいた少年は、やがて大人となり、今度は自分の子供に伝える――いい子にしていればサンタがやってくるよ、と。大人は幻想の語り部となる。だが、語るだけだ。本気で信じているはずがない。本気で信じていれば、彼はクリスマスの一週間前に血眼でおもちゃ屋を駆けずり回ることなどなく、貴重な休日をコーヒーでも啜りながら過ごすだろう。サンタがいて良かった、おかげで僕はおもちゃ代に一銭も費やすことなく、いつもより高級なキリマンジャロブレンドを買うことができるのだ。少年だった大人はそう呟く。もちろん、そんな大人は(私の知る限りで)いない。大人はサンタを信じない。想うこともない。それが想われるのは、幼少期のノスタルジーという形でのみだ。

 一方、大人になってもなお、超自然的存在を心から信じている人は多い。都市伝説であったり、UMAであったり、未確認飛行物体といった存在は一部の人々の心を強く捉える。彼らにとってそれはまごうことなき現実である。だが、この状況を幼年期にサンタクロースを信じることと同等に語ってよいものか。一つの明確な差異は、私が自覚的に用いてきた「想う」という言葉にある。子供がサンタを想うこと、それは、サンタという存在が私を認識し、私に対して働きかけていると想像することである。そして、聞きかじった物語のディテールを組み合わせて、自分の中でサンタという人格を形作ることでもある。(言うまでもなく、われわれがチュパカブラを「想う」ことは大変に難しい。チュパカブラが私を認識し、私に会いに来るのだ! と本気で想っている人がいるとすれば、それが健康的な精神状態であるとは到底言えない)

 誤解を恐れずに換言するならば、サンタを想うというのは信仰に似ている。だが、ここで語りたいのは別の対象への想いについてだ。それはフィクショナルな、存在しない人物たちを、存在しないと分かりながら想うという様態である。このフィクションの存在(あるいはアイマスにおけるアイドル)を想うというのは、信仰に限りなく近いと同時に、異なるものでもある。
 そして、この信仰への近さと差異の中に、あるいは、そこから浮かび上がるという問題の中に、どうやら私はアイドルマスターの意味を見出している。

黛冬優子はアイドルマスターである
※↑1年前に私が書いたものです。 恐らく本稿よりはポップで読みやすいです。こういうことを考えてる人が書いたのだな、という前提として目を通していただけるとありがたいです。

※ 本稿は一応冬優子やアイマスについて書いているようですが、たいへん回りくどい内容になっています。

※ アイドルマスターシャイニーカラーズの黛冬優子関連シナリオのネタバレを含む可能性があります。


フィクションを想う

 フィクション上の存在をメタ的な視点から想う、というのは私の根っこにあたるのかもしれない。
 小学校低学年の頃、夕方に地方局で流している洋画を観るのが好きだった私は、ある時『ラスト・アクション・ヒーロー』という映画に出くわした。
アーノルド・シュワルツェネッガーのキャリアの中でもまずもって傑作として挙げられることのないこの作品は、どういうわけか幼少期の私に強烈な印象を残したのだった。

 簡単に筋書きを説明すると、NYの少年ダニーが映画の中に入れる魔法のチケットを手に入れ、作中のシュワルツェネッガー主演アクション映画『ジャック・スレイター』の世界に飛び込むというお話である。映画の荒唐無稽なおきまりに満ちた世界で、フィクションの人間であるスレイターと観客ダニーは心を通わせていく。

I am an imaginary hero, Danny. You have a real life.
俺は空想上のヒーローだ。ダニー、お前には本物の人生がある。
You are real to me. You are the best. I need you...
僕にとって君は本物だよ。最高さ。君が必要なんだ……
Here where you can always find me. But I need you there to believe in me.
映画の中ではいつだって会える。向こう側で俺のことを信じていてくれ。
                                                                              Last Action Hero, 1993.

 『ラスト・アクション・ヒーロー』が優れているのは、いわゆるハリウッド・ブロックバスターというフォーマットの軽薄さに自覚的でありながらも、その軽薄さから目を逸らすことなく、愛情をもって向き合う真摯さである。シュワルツェネッガー映画をパロディ化しているが、決して馬鹿にするわけではない。だからこそ、ダニーのスレイターに対する想いを私たちは情感をもって受け取ることができる。

 あの時、感傷を覚えつつも、私の人生において根幹をなす考え方が形成されつつあるとは気づいていなかった。フィクションのキャラクターを想うことフィクションのキャラクターが「彼らとしての」人格を持ち、私たちと交感できると信じること―――それは私にとって重要な価値観となっていった。

 だからこそ、
少年時代、『ロジャー・ラビット』のトゥーンと人間が共存する世界を想像しては胸を躍らせていた。
思春期の私にとって、『RAINBOW GIRL』は最もロマンチックなラブソングだった。
成人してもなお、『ドキドキ文芸部!』は強烈な体験であり紛れもなく純愛のストーリーであった。
そして、アイドルマスターは私の人生を彩る最も大きな存在であり続けてきた。

 アイドルマスターのアイドルへの向き合い方は人それぞれである。そう断っておいた上で、私自身のスタンスとしてはどうやらアイドルを表象やコンテンツとしてではなく一つの人格のように想っているようである。だが、ここで信仰との差異の問題が出てくる。つまり、フィクショナルなアイドルへの愛というのは、それが現実に存在していないとメタ的に認識していることが前提となる。

 社会的なものを抜きにして考えるならば(教義や程度の違いはあるにせよ)信仰というのは神の存在を信じることを全く抜きにしては成立しえない。自分の内心を神に投げ出せるか、投げ出せないかが焦点になってくる。しかし、メタ的な視点からフィクショナルなものを想うと決めたとき、主体と対象の間には、人と神という世界観よりも大きな隔絶がある。「私は愛している対象が存在していないと知っている」と認めなければならない。そして、その狂人じみた振る舞いに対して恥じることなく、距離を置くのでもなく、腹をくくることで始めてという回路が開かれる。

(もちろん、このようなフィクショナルなものを想う、あるいは愛する営みは、それが真摯になればなるほど世間の価値観では逸脱としてスティグマタイズされていくことは議論の前提として認識しておくべきだと一応記しておく。そうした状況と向き合うなかで、例えば初音ミクと結婚した人の話は示唆に富む。)

 逆に言えば、愛の回路だけが、私とアイドルを繋ぐである。彼女たちは存在しない。彼女たちには手を触れられない。そこには決して覆らない隔絶がある。だからこそ、私は、あるかたちで想うことでアイドルとの関係を結ぶ。(これについては本稿の後半で述べる)
 また、非-存在を想うことは、現代を生きる私たちだけに許された能力であるかもしれない。動物と違って、ヒトは神への信仰を持つ。いささか飛躍的ではあるが、その次のステージとして、私たちは作り物を作り物として想う能力を獲得しつつあるのではないか、とも思うのだ。

冬優子とアイドルのレファレンス・ポイント

 そろそろ冬優子の話をしよう。

 冬優子はアイドルというものをどう考えているのか?
 私が知る限り、冬優子には以前アイドルをしていた経歴はないはずである。その一方で、冬優子はアイドルの在り方に相当の執着と矜持を持っている。これはどういうことだろうか。

 その答えの一つとして、イベント「Straylight.run ( )」の報酬である和泉愛依のサポートSSRコミュを取り上げたい。3話目にあたる「シー」では次のようなやりとりがある。

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 海辺でのイベントの帰路、愛依にアイドルになった理由を聞かれた冬優子は、あしらいながらも「アイドルの女の子たちが出てくるアニメ」について口にする。(これは冬優子WING編シナリオ「ハートフル・フェアリーテイル」に登場する「魔女っ娘アイドルミラクル♡ミラージュ」と同じ作品である可能性が高い。その同一性についてはここでは問題にしないが、詳しくはこの方の記事などを参照してほしい。)
 彼女のレイヤー性やダブルスピークを精査する必要がどうしても発生するため、冬優子のシナリオを読む上では信頼性が大きな問題になってくる。だが、ここで冬優子が半ば眠りに落ちながら件の発言をしているということは、彼女がアイドルになった理由、あるいは彼女のアイドル像においてそのアニメが大きな位置を占めていることが本心である示唆として読み取ることができる。
 愛依にとって、冬優子は非常に「アイドルに詳しい」ためアイドルになることは「ずっと夢だった」かのようにみえる。同じ283プロでいうところの三峰結華のようなリアルアイドルのファンかもしれないと考えたのだろう。

 だが、決してそうではない、という事実に、私は冬優子の特別さを見ている。どうやら、冬優子は幼い頃にアイドルアニメに夢中になり、それをもとに自身のアイドル像(あるいは、アイドルとは何かという定義の参照元=レファレンス)を形成していった。それは、フィクショナルで、純化された空想の存在としてのアイドルだった。私たちにとってのアイドルマスターと同じように。
 冬優子はアイドルマスターの中でも特異な、フィクションをアイドルとしてのレファレンス・ポイントとするアイドルなのだ。

(特異とは書いたがアイマス全体を見渡せば唯一ではない。例えば安部菜々さんなどについても併せて考える余地はありそうだ。)

 幼少期ならばそれでよい。しかし彼女にとってその作品が(自分の一部と言えるほど)重要なものになったがゆえに、大人になるにつれ、きっとある種の絶望を経験したはずだ。それは、「あの子たちはいない」「わたしはあの子たちのようにはなれない」という絶望である。
 スカウトされた際、あるいはアイドルになった当初、冬優子は後ろ向きな言葉を度々口にする。「本当にふゆがアイドルになれるか」「ふゆはどんなアイドルになれるか」……それはアニメの中のアイドルと自分とのギャップを認識しているからだ。恐らく冬優子は(何らかの理由で)以前から自己の内面を卑下する傾向にあったのではないかと思われるが、自身がアイドルになってしまったがために、それは臨界点をむかえる。冬優子はアイドルのレファレンス・ポイントと自己との差を常に意識してしまう。だが、そのレファレンス・ポイントは存在しない無の地点にある。無という座標への差を埋めることはできない。届かない星に手を伸ばしながら、冬優子は自己嫌悪の毒に侵されていく。

 冬優子が選んだ答えは、「『これがふゆ』って胸を張れるアイドル」を目指すこと、すなわち、レファレンス・ポイントを自らのもとに引き戻し、再定義することだった。彼女は内面までアニメに出てくるような純粋なアイドルそのものにはなれない、そして自分自身をさらけ出すこともできない。だから、アイドルのレイヤーを纏うのだ。彼女は、レイヤーという被膜のバリアで自分を防護しつつも、適度に本心を(巧妙なダブルスピークによって)出力することを覚えていく。また、レファレンス・ポイントとレイヤーを結びつけることで、内面(冬優子)はある程度自由になれる。つまり、ふゆのレイヤーさえ保持できれば、必要に応じてアイドルとしての生存競争にシビアにもダーティにもなれるというわけだ。
 そうして彼女は、幼い頃に憧れたアイドル像そのものを愛すること、自己を疲弊させずに自分らしい形でアイドルになること、この二つを両立させたのだった。冬優子は、自分が完全に純化されたアイドルと同一化することが本質的にはできないと受け入れながらも、自分自身の大事な一部として想い続けている。

 この話を踏まえて、私たちの側に立ち返ってみる。私たちがアイドルを想うときのレファレンス・ポイントは具体的にはどこに在るだろうか。存在しないアイドルを愛することが喜びなら、その根拠がもしどこにも存在しないとしたら、どうやってレファレンスを自分たちの側に引き戻すことができるだろうか。ここからは蛇足になることを覚悟しつつも論を進めていきたい。

解釈違いという病

 必ずしもポジティブな話題ではないので簡単に触れるとするが、今年(2020年)、シャニマスのライター交代という話題が界隈で駆け巡った。様々な反響があったわけだが、このような主張も目にした。曰く、「ライター交代後のコミュにおいて冬優子の台詞・行動は以前とかけ離れており、ライターの腕不足が露呈している。私の知っている『黛冬優子』は死んだ」。また、この件を抜きにしても、いわゆる解釈違いというのは槍玉に挙げられがちであり、それが公式の発する情報だと、より一層のヒートを生むようである。

 私自身の見解を記しておくと、もちろんキャラクターの同一性は保たれてほしいと思うし、クオリティ・コントロールという観点においても細心の注意が払われていることを望むばかりである。また、ライター交代以後の冬優子については、件の人が指摘した点以外でも以前と相反する描写があるとは何度も感じている。
 しかし、前章で解釈じみたものを書いておいた上で恐縮だが、私はそのような「解釈違い」案件に殊更に反応する気はない。(色々の経緯から最早反応しなくなったと言った方が正確かもしれないが……)なぜかというと、たとえ「冬優子は死んだ」と言われるような「解釈違い」があったとしても、その上で私の冬優子を愛する気持ちが陰ることが一切無かったからだ

 決して「解釈違い」に反応してしまう人を批判したいのではない。「解釈違い」を矮小化して、ありのまま公式の提示する情報を受け入れろと言いたいのでもない。あなたが愛するアイドルと矛盾してしまう何かに直面した時の当惑や怒りは十分に理解できる。それでも私が気になっているのは、そもそも解釈というのものの重みを各々が大きく捉えすぎてはいないか、ということである。
 ライターの技量によってアイドル像が変わってしまうことがあるとすれば、不本意なことではある。だが、一人の人間が書いた絶対に破綻しないキャラクターが見たいのなら、アイドルマスターというコンテンツはそもそも向いていない。文学、あるいは作家性の高いエンタメを扱うのならまだしも、それが(残念ながら)ブラックボックス化しているコンテンツで作者-作品の一対一関係に基づく伝記的批評を試みれば、いつかは絶対に壁にぶつかる。アイドルマスター自体10年以上続いてきた中で、(765ASを中心として)アイドルの造形というのは絶えず変化してきた。そんな大きなコンテンツにおいて、どこまでが許容できてどこから許容できない「解釈違い」か、都度ジャッジしていく試みに私は参画する気が無い。
 また、テクストをはじめとするコンテンツ全てを読み込み、解釈をするということの重みを徒に強調すれば、極論を言えばSSRを一枚でも持っていない人はアイドルを語ることを許されないというような悪夢じみた様相を示すことにもなる。そんなアイドルマスターを私は追える気がしない。
 そして解釈というものの正当性は何が担保してくれるというのだろう。文学を例にとるなら、たとえ名のある作家の書いた小説でさえも、箇所によっては同じ登場人物が矛盾するような振る舞いをすることがある。むしろ、絶対に破綻しないキャラクターということ自体が本質的に不可能である。なぜならそれは確実に人間が書いたものだからだ。私たちは機械でもシステムでもなく、アンビバレンスのない人間など存在しない。
 そもそも、私たちは隣人や友人、家族のことをどれだけ「解釈」できているだろうか。 その解釈が100%正しいという根拠は? 彼らが「解釈」にそぐわない行動をしたとしたら? 第一、私たちは自己自身のことさえ正しく「解釈」できているのか?
 私が「解釈違い」という言葉に関して常々疑問に思っているのが、どこかに「人間の心は完全に言語化できる」という無意識の傲慢があるのではないか、ということだ。もし、そんなに簡単に心が紐解けるのだとしたら、心理学などという学問が今日生き残っている意味もないだろう。

 ここまで、やたらに「解釈違い」について述べてきたが、私が語りたいことはその先にある。つまり、「解釈違い」という不可避の病をどう乗り越えるかという論点だ。前章の冬優子の話を引き合いに出すなら、私たちはレファレンス・ポイントの曖昧なアイドルという存在を追いかけているといえる。そうなると、アイドルマスターを追う個々人はそれぞれの知識や感性に基づいてアイドルのレファレンス・ポイントを設定している。だから、公式の情報は各々が取捨選択して、自分なりのアイドル像を形成すればよい――というのが無難な回答となる。私自身も、かつてはそうやって対処してきた。だが、それで終わらせるだけでよいのか、という思いがふつふつと浮かび上がってきたのだ。

非-存在を『愛するということ』

 答えは、やはり愛にあると私は思った。序盤で述べたように、私たちには作り物を作り物として愛し、関係を結ぶ能力があるはずだ。この愛というキーワードを考える上で、ドイツの社会心理学者エーリッヒ・フロムの『愛するということ(鈴木昌訳)』(紀伊國屋書店, 1991)という著作を紐解き、メタ的な視点からの愛(つまり、アイドルへの愛)との隣接点を探ってみよう。
 本著で、フロムはいわゆるロマンティック・ラブ(愛と恋を同一視し、「落ちるもの」として捉える)を否定し、愛とは習得する技術であると語る。フロムに言わせれば、愛は「能動的な活動であり、受動的な感情ではない」。(43) だからこそ理論と実践、習練が必要になってくる。そして、その対象として「兄弟愛」「母性愛」「異性愛」「自己愛」「神への愛」といったジャンルごとに検討しながら、その本質を考察していく、というのが大まかな概要である。

 フロムは、愛の能動的性質には四つの基本的な要素が見られると述べた。それは、配慮責任尊重の四つだ。 (48)
 配慮とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。
 責任とは、愛する者の要求に対して、自発的に応じる用意があるということである。
 尊重とは、愛する者を支配したり所有しようとするのではなく、その人自身としての存在を認めることである。
 とは、愛する者の立場に立って考えること、そして、相手の「秘密」とでも呼べるような根源まで理解したいという欲求を持つことである。

 これら全てが、多かれ少なかれ非-存在への愛に重なるところがあるのではないかと思うが、とりわけ最後の知は重要な問題を孕んでいる。
 フロムは知についてこのように書いている。

私たちは自分のことを知っている。だが、どんなに努力しても、ほんとうの意味で自分を知ることはできない。また、私たちは友人のことを知っているが、ほんとうには知らない。なぜなら、私たちも友人も物ではないからだ。私たち自身の、あるいは誰か他人の、存在の内奥へ深く踏み入れば入るほど、知りたいと思う目標は遠ざかるばかりだ。それでも私たちは、人間の魂の秘密に、つまり「彼」そのものであるような、人間のいちばん奥にある芯に、到達したいという欲求を捨てることができない。(フロム, 53)

 本稿をここまで読まれたのなら、この箇所は私にとってのアイドル、あるいは冬優子にとってのアイドルとパラレルになっていることが分かるかと思う。また、フロムは折に触れて愛を「孤独を乗り越えるために他者との同一化を図る行為」として説明してもいる。
 フロムは、対象を究極的に知り、繋がりたいという欲求を満たす手段として二つ挙げている。一つは、対象を力で抑え込み、所有するという絶望的な方法である。もう一つの手段が愛である。

 ここでの愛は、能動的行為体験として示される。しかし、フロムによれば、単に行為を起こせばよいというわけではない。

 幻想、つまり自分が相手に関して抱いている非合理にゆがんだイメージを克服し、相手の現実の姿を見るためには、相手を、そして自分自身を、客観的に知る必要があるある人間を客観的に知ったときにはじめて、愛の行為を通じて、その人の究極の本質を知ることができるのである。(フロム, 56)

 ここでの「客観的に知る」というのは、非-存在の文脈においては、テクストを読み込み解釈を形成するということではないと私は考えている。自分と相手を一歩引いて客観的に見るのだから、それはむしろ「私とフィクションという関係を見つめなおす」、そして「非-存在を存在しないものと認める」ことなのではないだろうか。

 さて、愛の行為とは結局何か、ということについてだが、「能動的に相手のなかに入ってゆくことであり、その結合によって、相手の秘密を知りたいという欲望が満たされる」(54) という記載があるように、典型的な例としてはセックスが挙げられるだろう。ただし、わざわざ言うまでもなく、私たちは架空の存在と真の意味で性交することはできない(無の対象との性交は結局自慰である)。ここでは、フロムが挙げている宗教における合一体験をイメージすると分かりやすいだろう。
 フロム曰く、西洋の伝統的な神学においては思考によって神を知ろうとする試みがなされてきたが、一神論や合理主義の帰結としての神秘主義においては、思考によって神を知ることができるという考えは放棄され、神との合一体験がそれに取って代わった。(56)また、解釈についての私の指摘を繰り返すならば、アイドルを思考によって知るというスタンスには、私たちの知の本質的な限界への認識が欠けている、と改めて言い換えることもできるだろう。
 そして、その合一体験とは具体的に何をすればよいのか、ということを考えるにおいて、再びフロムの「神への愛」への記述を取り上げる。

 ……神への愛とは、思考によって神を知ることでも、神への愛について考えることでもなく、神との一体感を経験する行為である。
 それゆえ、正しい生き方が重視されることになる。些細なことも重要な行為も含め、生活のすべては、神を知るために捧げられる。ただし、正しい思考によってではなく正しい行いによって知るのである。(フロム, 119)

 続けてフロムは、バラモン教や仏教や道教といった東洋宗教やユダヤ教、ひいてはスピノザの哲学などを取り上げ、いかにそれが「正しい行い」の実践を解いてきたかについて語る。つまり、対象を究極的に知ることができない一方で、日常のあらゆる行動を神のために捧ぐという合一体験によって、一部の人々は神を想い、神を愛し、神と繋がって生きてきた。
 ちなみに、このような姿勢の結果として、フロムはインドや中国の宗教的発展で見られた寛容を取り上げている。個人的に、私たちにとって示唆に富む箇所だと思うので敢えて引用させてほしい。

正しい思考が究極の真理ではなく、したがって救いの道でもないとしたら、自分とはちがう原理に到達したほかの人びとと争う理由はない。暗闇で象について説明するように言われた人びとの話は、この寛容をじつに巧みに表現している。象の鼻にさわった人は「この動物は水ギセルのようです」と言い、耳にさわった人は「この動物は扇のようです」と言い、足にさわった人は「この動物は柱のようです」と答えたという。(フロム, 120)

 まとめると、実体のない愛の対象を究極的に知ることができない、という合理化の帰結として、日常的な行為の実践という合一体験がある。さて、ここでようやくアイドルマスターに立ち返るとして、この合一体験としてプロデューサーたる私たちには何ができるのかを考えてみたい。そこにこそ、「解釈違い」を乗り越えるの実践への道が開かれているはずだ。

Produce: アイマスを愛するということ

 ここで、とある動画を勝手ながら紹介したい。 

 これは、テレビ番組「水曜どうでしょう」を元ネタとしたシンデレラガールズの二次創作動画である。このシリーズでは、投稿者(ポジどうP)が実際に「水どう」さながらのハードな旅をするとともに、ノベマス形式の編集をつけて番組としている。
 上の動画では、本家の「東京ウォーカー」(徒歩だけで東京を旅する企画)になぞらえつつ、札幌駅から定山渓温泉まで37.0kmという途方もない距離をポジティブパッションとPがひたすらに歩き続ける様子が描かれる。日が既に沈み、歩行者など全くいない山道を4人はとうとう踏破し、大団円となる最終夜のエピソードだ。
 さて、動画として見ればそれだけなのだが、冷静に考えれば現実の撮影過程ではポジパの3人がいるはずもないので、彼はカメラを持って37.0kmをたった一人で歩き続けたことになる。例えば彼がテレビマンだったり企画系YouTuberだったりして、その対価として金銭が手に入るのならばそれでもよかっただろう。だがそういうわけでもなく、彼は自分の作りたいノベマス動画を作るために、息を切らし、ボロボロになりながら、ただ歩いたのである。

 その事実が私の胸を打つ。もし彼がアイドルマスターに出会わなかったとしたら、この動画は作られなかったはずだが、もっと言えば、彼は37.0kmを歩くこともなかったのである。彼は、存在しないアイドルを想い、彼女たちの番組を作るために、自らの肉体で、その距離を歩いた。
 歩くこと。それは、ゲームをするとかアニメを見るとかといったことと比べると、アイドルマスターとは直接関係のない営みのように思える。しかし、彼は紛れもなく、アイドルマスターがあったから、アイドルマスターのために、歩いたのだ。彼は確かにアイドルマスターのために限られた命の一部を差し出した。
(そして、フロムによれば愛とは「自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与える」(46) ことなのである。)

 アイドルマスターを愛する私たちは自身をプロデューサーと呼んでいるし、その行為をなんとなくプロデュースと呼んでいる。ここで、改めてプロデュースという言葉の本質的な意味に立ち返るべきだろう。

produce: to make something or bring something into existence
何かを作る、または何かを在らしめること

                     (https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/produce)

 私はこう考えている。
 プロデュースとは、0から1を生み出すことである。
 それは、あなたがアイマスに出会わなければこの世に存在しなかったものを生み出すことだ。または、アイマスのためでなければやらなかったことをやることだ。

 それは何であってもいい。
ゲームをすることでも、アニメを見ることでも、ラジオを聴くことでも、ライブに行くことでもいい。

 あるいはを描いたり、小説を書いたり、動画を作ったり、何らかの創作活動ができるのならば、もちろんそれでいい。

 かといって、そのような創作活動ができないから自分は何もできていないと思う必要は、決してない
 ただ歩いたり、カラオケに行ったり、P仲間を作ったり、旅行に行ったり、ゴミ拾いをしたり、食べたことのないものを食べたり、声優ファンになったり、ただ漠然とアイドルについて考えたりであっても、それがアイドルマスターがきっかけになっているのならば、私はプロデュースという営みの一部であると思う。そして、限られた時間でというコストをアイマスに能動的に捧げているのならば、その点において貴賤はないのだから、他の人と比べる意味はない。

 アイマスに出会ったその瞬間から、あなたの日常は、プロデュースの一部になっている。

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 アーケード版アイドルマスターのデモムービーで最初に表示される文言。

 また、アイマスでは名刺が重要な文化となっている。これは、もちろん職業としてのプロデューサーのロールプレイ的意味合いや、コミュニティにおける連絡先交換の必要性といった理由はある。
 だが、名刺が重要なのは、何よりそれがプロデュースの最小単位だからだと私は考えている。思えば、名刺とはプロデューサー名と担当アイドルが書かれた紙きれ1枚に過ぎない。しかし、私たちがアイマスと出会わなければこの世に存在しえなかった紙片であり、私たちにとってかけがえのない意味を持つ。私たちはそこにプロデューサーとしてのアイデンティティを刻んでいる。いわば名刺とは「私はプロデューサーである」という最もシンプルな表現であり証明である。それが自分で描いたハイクオリティなイラストを添え高級紙に印刷されたものであっても、コピー用紙に手書きして切り取ったものであっても、それらが持つ意味合いは等価で、誰にも奪えないものだ。

 私たちは、アイマスと出会い、それをきっかけに何かを生み出し、何かをすることにを使っている。これこそがプロデュースであり、日常的な行為の実践であり、アイマスとの合一体験である。この体験こそが、アイマスを愛することだ
 私たちは、大切なアイドルのことを究極的に知ることができない。レファレンス・ポイントが存在しないからである。しかし、日常のプロデュースという手段によってのみ、隔絶を乗り越え、という回路で彼女たちと繋がることができる。そのために、まず私たちは彼女たちを信じなければならない。時として彼女たちの存在が揺らぎ、イメージが滲んで見えるようなときにこそ、信念をもって彼女たちを想わなければならない。

理にかなった信念の根底にあるのは生産性である。信念にしたがって生きるということは、生産的に生きることなのだ。(フロム, 186)

おわりに

 自分なりに思っていたことを色々と詰め込んだ結果、かなり奇怪で雑多な印象を与える文章になってしまった。(去年はアイディアが絞れていた分、振り返ってみるとよくまとまっていたのだが……)そもそも冬優子の誕生日に合わせて文章を構想していたのに、冬優子があまり出てこない上に自分でもさらけ出すとは思っていなかったところに着地してしまったし、この内容では賛同してくれる読者も少ないだろうなという気がしないでもない。が、本文でも書いたように、何かをアウトプットすることにはそれ自体の意味があるとは思うので必ずしも後悔はしていない。

 2020年を振り返って、個人的には(GRADコミュで)冬優子が内面をレイヤーにうまく出力することができるようになっていたのは素直に嬉しかった。また、幸村さんの素晴らしいパフォーマンスのおかげで、ステージで輝く彼女を画面越しであっても応援することができた。2021年も、冬優子の新たな一面を発見しながら、冬優子と生きていけることを楽しみにしている。


冬優子へ: お誕生日おめでとう。
これから何があっても、君が大好きです。
向こう側で、君のことを信じています。

文: ナポリンP (@Napolin_P)

 

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