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黛冬優子はアイドルマスターである

シーズン0 

 アイドルマスターシャイニーカラーズの黛冬優子にやられている。
2019年3月10日、彼女はこの世に姿を現した。
2019年4月5日、私は彼女に出会った。
 これを書いている時点(2019年12月)で一年も経っていないが、はっきりと断言できるのは、私は黛冬優子にやられているということである。

 この「やられる」という感情を言語化しようと思い立つたびに私の思考は行き詰まり、それまでの一切を棄却し、最小単位を絞り出すに至った。
黛冬優子」と。

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 彼女を知れば知るほど「冬優子」とだけ書いたツイートが増えていった。それは私の祈りであり、叫びであった。私は黛冬優子にやられている!

 そして、私が今試みているのは、この「冬優子」という混濁した感情にメスを入れ、一つでも多くのものを取り出すことである。
 これは一種の回顧録であり、誰の共感を呼ぶか私にはまだ分からないが、どうやらそれはアイドルマスターという存在そのものと関わってくるところへ着地していく気がする。

 本稿はアイドルマスターシャイニーカラーズの黛冬優子関連シナリオのネタバレを含みますのでご注意下さい。

シーズン1 いちばん最初の気持ち

 シンデレラガールズやミリオンライブには個人的な後悔がある。
2007年〜2008年頃にニコマスにハマり、2009年のアイマスSP発売と同時にPを自認した私は、当時のアイマスのソーシャルゲーム化に違和感を覚えていた。結果的に彼女たちの歩みを追いかけるのに二の足を踏んでしまい、その期間はシンデレラガールズ・ミリオンライブのプロデューサーとなった現在も未だ私の前に横たわっている。

 アイドルマスターシャイニーカラーズの始動が発表された時、私はこれがどんなものになろうと最初から追いかけていくことを決めた。イルミネーションスターズ、アンティーカ、アルストロメリア、放課後クライマックスガールズ。順番にユニットが発表されていく中、私の目は意識的に担当と呼べるアイドルを探していた。そして、そのアイドルはすぐに見つかった。

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 なぜ西城樹里の担当になったのか。
ルックスが自分好みであったから。ボーイッシュな子が好きだから。可能性を感じたから。どれか一つを指差して「これが理由だ」ということはしたくないが、ともかく私は樹里を選んだ。

 新しいアイドルマスターの世界で新たなスタートを切り、駆け抜けていった日々は全てが新鮮で楽しいものだった。樹里だけでなく、283プロのアイドルたちを、ユニットを、ゼロから知っていき、思い入れを深めていった。

 2019年3月9日、10日に開催された1stライブ「FLY TO THE SHINY SKY」はまさにその総決算となった。それまでに積み重ねてきたプロデュースが、体験してきたコミュが、ライブの感情を増幅させていた。283プロを最初から追いかけてきて良かった、私はこれからも彼女たちを導いていくのだ……と決意を固くした。しかし最終公演がエンディングを迎える直前、その瞬間は訪れた。

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 ハードな電子サウンドと共に、画面に現れたのは我々が全く知らない三人のアイドル。ストレイライト、とユニット名らしきものが表示されていた。思い返してみると、あの時は驚きと困惑が喜びを上回っていたような気がしてならない。だが、私のシャイニーカラーズの第二章はここから始まる。

シーズン2 さぁ、幕を上げましょう!

 おおよそ一ヶ月後、黛冬優子のプロデュースカードが追加され、その瞬間から私は黛冬優子にやられてしまった。

 それまでの期間、彼女に関する情報は、公式HPに掲載されていた簡素なプロフィールや台詞が全てだったことになる。また、それはプレイヤーたるプロデューサーを巻き込んだ仕掛けとも関わっていた。

 ここで、 W.I.N.G編シナリオを簡単に振り返りたい。

 プロデューサーは、電気街でアニメのポスターを見ていた少女をスカウトする。黛冬優子、「ふゆ」と名乗る少女は本当に自分がアイドルになれると思うかと真剣な表情で問うが、「そう思ったから声をかけた」という言葉を聞きデビューを決意する。(「ハートフル・フェアリーテイル」)

 冬優子は笑顔を絶やさず仕事をこなしていく。「どんなアイドルになりたいか」と聞くプロデューサーに逆に「どんなアイドルになれると思うか」と聞き返す冬優子は、なにやら後ろめたそうな態度を取っている。(「ワンダフルドリーミィデイズ」)

 撮影の仕事で、冬優子はカメラマンに「君の笑顔は本物じゃない」と看破されてしまう。控え室に戻った冬優子はプロデューサーの前で人が変わったように激昂。これが本当の自分と言い放ち、今までの清楚な振る舞いは装っていたものだと告白する。それっきり事務所に来なくなった冬優子に対し、プロデューサーは二次審査通過の連絡メッセージを入れる。(「台本通りの茶番劇」〜シーズン2終了

 冬優子がとうとう事務所を訪れ、心中を吐露する。辞めると考えてから空虚感を感じたこと。アイドルとしての仕事や成長を楽しめていたこと。本当の自分とのギャップに苦しみ逃げ出そうとしたこと。そして、「どんなアイドルになりたいか」というあの時の問いに「『これがふゆ』って胸を張れるアイドル」という答えを出し、もう一度アイドルをやりたいと懇願する。(「諦めたくないものはひとつだけ」)

 あの時のカメラマンともう一度仕事をすることになった冬優子は「完璧なふゆを見せる」ことを目指す。ふゆとしての「本当の笑顔」は、カメラマンの信頼を勝ち取るに至った。冬優子はアイドルとして新たなスタートを切ったのだ。(「さぁ、幕を上げましょう!」)

 冬優子はW.I.N.Gに優勝し、プロデューサーに感謝の意を示す。そして、共に頑張ってきたことへの「ご褒美」として、特別に「冬優子」と呼ぶことをプロデューサーに許す。(「まるで陳腐なハッピーエンド!」)

 さて、このシナリオの中でキーとなっているのは言うまでもなく黛冬優子の二面性であり、先述したプロフィールもそれを演出するものになっていた。すなわち、一見大人しそうにみえる「ふゆ」の下に真逆な「冬優子」が潜んでいる……というプロットツイストがW.I.N.G編シナリオに仕込まれているという仕掛け、それ自体がプロデューサーの間でセンセーションをもって受け入れられたのを記憶している。私もそれに唸らされたのは間違いない。

 しかし、私が黛冬優子を好きになっていった理由が、1秒でも多く彼女について考えたいと思ってしまった理由が、それだけで説明できるとは思えないのである。そして、私はその一部を説明する一つの結論に辿り着いた。

シーズン3 今日これから始まる私の伝説

 その結論はこうだ。

 黛冬優子は幾重ものレイヤーの下にアンビバレントな内面を持つアイドルである。このマルチレイヤー性アンビバレント性という性質を焦点にして黛冬優子を考えてみたい。

 彼女を貫くモチーフは様々なレイヤー(層)である。

 まず、外面的なペルソナ、あるいはアイドルとしてのレイヤー「ふゆ」が刺々しい「冬優子」の上に重なっているのは知っての通りだ。あるいは、そのツンデレ然とした「冬優子」でさえも更なる深層を隠すレイヤーに過ぎないという可能性が「諦めたくないものはひとつだけ」で示唆されている。

 また、彼女を取り囲む衣服などのアイテムもレイヤー的である。特に象徴的なのはコミュの重要な場面で登場するマスクだ。「ハートフル・フェアリーテイル」では、マスクという自分を閉ざすレイヤーを一枚剥いだその先に「ふゆ」というレイヤーが出現する。逆に、先ほど述べたように「諦めたくないものはひとつだけ」においては、「冬優子」というレイヤーさえも取り去った本音へと接近していくかのように、冬優子はマスクを外す。

 もう一つのモチーフがアンビバレント性

 アンビバレンスとは両面価値、すなわちある事柄について相反する感情を持ったり態度を取ったりすることである。例えば、冬優子はアイドルに対して強烈な憧れを持っていると同時に、自分がその理想から遠い存在であるという自覚があり、それが迷いにも繋がっている。また、プロデューサーに対して信頼を抱いているが、態度としてはそれを素直に表現できない。

 あえて平たく言ってしまえば、自己矛盾に満ちた内面を持っているということでもある。人をレイヤーだけで語るならば、レイヤーを剥いでいったその最深部に「本当の自分」があるという答えに陥りがちだ。しかし、現実の我々が証明してくれるように、人の内面はそうシンプルではない。プロデューサーも、冬優子自身でさえも、本当の自分が何なのか言い切ることなどできない

 こうした黛冬優子のマルチレイヤー性アンビバレント性を体現しているのは、他ならぬ彼女の名前だ。

 (まゆずみ)という漢字は眉を描く化粧品、すなわちアイブロウを指す。現実にそうであるように、化粧とは自分に対して日常的に纏うレイヤーだ。TPOに合わせるため、あるいは自分を表現するため、自分の顔面に別の層を重ねる行為だ。

 冬優子という名前も面白い。冷たい印象を与えるという漢字に対して、「優しい」という温かみのある言葉を想起させるという漢字が連なっている。これは一種の撞着語法、すなわちoxymoronだ(シンデレラガールズのPにはお馴染み)。矛盾しあう言葉を組み合わせるということ、それは1通りの解釈を許さない曖昧なふるまいであり、アンビバレント性とも解釈できる。

 こうした性質を持った冬優子が、私はとにかく愛おしくてたまらない。なぜならこれは極めてアイマス的なことだからだ。

 これを説明するにあたって、ある曲の歌詞を参照したい。「THE IDOLM@STER」だ。(アイマスそのものと区別するためプロデューサーの間では「歌マス」と呼ばれている)

 私自身がかつてそうであったように、この曲の歌詞に対して複雑な感情を持つ人は多い。端的に言えば、その内容がアイドルマスターの主題歌として違和感がある、という見方である。歌詞に登場するアイドルは、プロ意識が高いといえば聞こえはいいがどこかスレれていて、確かに765プロのアイドルには当てはまらないように思える。

うーん 人気者になりたいのは当然
まあ お金だってあれば嬉しいものだわ
それが目標だから遠慮なんて禁物
結果が全てよ  (THE IDOLM@STER)

 しかし、だからこそ、この曲はアイマスの主題歌を担うに足ると私は思う。なぜなら、アイマスにおける楽曲はキャラクターソングではないからだ。

 アニメ作品におけるキャラクターソングは、基本的にキャラクターの内面をそのまま取り出してきたかのように描写するものだ。もちろん、そうしたキャラソンの文法はアイマス楽曲にもある程度は踏襲されている。しかし、絶対にそうであるわけではない。

 アーケード版アイドルマスターにおいては、「この曲はこのアイドルの持ち歌」ということこそ設定されていたが全曲を全アイドルが歌うことができた。その中で歌マスだけは「誰の持ち歌でもない」楽曲であった。よって「誰にも当てはまらないこと」を強く意識して作詞された可能性さえある。

 アイマスにおいて、楽曲はアイドルの内面ではない。だとすれば何か? レイヤーである。アケマスの楽曲は、アイドルに纏わせるレイヤーなのだ。ボーイッシュな菊地真に「魔法をかけて!」を歌わせる時、プロデューサーは自分のプロデュースによって新しいイメージを纏わせることができる。双海亜美に「エージェント夜を往く」を歌わせたプロデューサーは、亜美の歌声と楽曲の化学反応に衝撃を受けたことだろう。アイドルが特定の曲しか歌えず、楽曲はアイドルの内面を反映すべきという縛りがあったとすれば、こうした可能性は芽吹かなかった。歌マスは765プロのアイドルというより、アイドルがレイヤーを纏うということそのものを構造的に歌っている曲とは考えられないだろうか。

 そして、これはアイドルマスターが文字通りプロデューサーの物語という事実に支えられている。アイドルコンテンツが無数に存在する現在、アイマスが際立つ点があるとすればこれに尽きるだろう。プロデューサーの視点を通して、少女がレイヤーを纏いアイドルになるという物語をアイマスは語り続けている。アケマスから始まった物語の先にシャイニーカラーズがあり、ストレイライトがあり、その最先端に黛冬優子が立っていると私は思う。

 黛冬優子は、アイマスだから語ることのできる物語を体現している。

 また、ある種の偶然であるということは了解した上でも、歌マスと冬優子の相似性は興味深い。時間があればぜひ歌詞を読み返して頂きたい。彼女の声が聴こえてはこないだろうか。

うぬぼれとかしたたかさも必要
そう 恥じらいなんて時には邪魔なだけ
清く正しく生きる それだけでは退屈
一歩を大きく  (THE IDOLM@STER)

 アイドルというレイヤーへの強い意識はもちろんとして、その内面は少女らしくアンビバレントなものであることが歌詞から読み取れる。私は確信している。彼女はアイマスの中で最もアイマスらしい曲を背負えるだけのアイドルだと。

 黛冬優子こそがアイドルマスターなのだ。

シーズン4 今、ここにある光の色は

 なにやら大仰なことばかり書いてきたが、私が黛冬優子にやられている理由はもう一つある。それは、彼女の存在があまりにも強く、時として現実の私たちプロデューサーさえも見据えているかのように思えるからだ(私はこれを現実への貫通力と呼んでいる)。

 最初にそれを意識したきっかけは、最初のPSRカード「ザ・冬優子イズム」のTrue End「暗闇の中でも見つけてくれたから」だ。

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  冬優子が『プロデューサー』ではなく『あんた』に一番のアイドルであると認められようとする時、これはもちろんプロデューサー個人としての感情を指している。しかし、この『あんた』はそれだけでなく、モニターの平面を超えて現実の我々に突き刺さっている……というのは考え過ぎだろうか。

 また、ファン感謝祭編のオープニング「ウェイト・イン・ザ・ウイング」ではこのような一幕もある。

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 シャイニーカラーズにおいて、あるいはアイドルマスターというコンテンツにおいて、冬優子は一人のアイドルに過ぎない。彼女の物語に強く惹かれないプロデューサーもいるかもしれない。冬優子の言葉は、我々が持っている一種のジレンマ、すなわち一人のアイドルにどこまで誠実でいられるかという問題も照らし出している。

 冒頭で触れたが、西城樹里の担当プロデューサーとしてシャイニーカラーズを始めた私にとって、こうした問題を突きつけてくる冬優子は痛烈でもあり、同時に心から大切にしたいと思える存在になっていった。現在も私は樹里の担当プロデューサーでもある。しかし、冬優子が「私だけを見て」と言うたびに、本気で悩み、苦しんだ自分がいた。滑稽かもしれないが、ひとつのアプリゲームでそれだけの感情を体験できるのだとすれば、かけがえのない体験だと私は思う。

 これだけで終わらないのが黛冬優子の恐ろしさである。

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 初のPSSRカード「オ♥フ♥レ♥コ」のTrue End「今、ここにある光の色は」では、アイドル以外にも「面白いもの」「楽しいもの」があるなかで自分を選んでくれる人々への思いが語られる。そして、「プロデューサーが最初のファンである」というアイドルマスターに通底するテーマ(先ほどのカードでも言及される)によって締めくくられる。

 現実の我々の人生にも、アイマス以外の様々な娯楽が、あるいは生きていくのに必要なことが、無数に存在している。「アイマスは人生」と見得を切っても割り切れない事実がある。長いアイドルマスターの歴史の中で、これだけの究極的な問いに踏み込めたアイドルは黛冬優子以外存在しないのではないか。まさしく現実に貫通するアイドルである。

おわりに

 本来ならばストレイライトというユニットについても触れたかったが、今回は冬優子個人にフォーカスする都合上オミットした。また、私のこれまでの文章も、「やられる」という感覚の半分も説明できていないようで、忸怩たる思いだ。構造ばかりを書き連ねて感情が抜け落ちてしまっている気がしてならない。だから最後はシンプルにこう言いたい。

 私は、黛冬優子に惚れているのかもしれない。

 プロ意識が高いところが好きだ。ファッションセンスが好きだ。

 勇気があるところが好きだ。声が好きだ。

 気配りができるところが好きだ。実はオタクっぽいところが好きだ。

 二人の時はしゃぐところが好きだ。カツカレーを食べてるところが好きだ。

冬優子のことが好きだ。

そして、私は冬優子のことを実は全く知らない。

何の専門学校に通っているのか? 家族との関係はどうなのか? 

『魔女っ娘アイドルミラクル♡ミラージュ』はどんな作品か?

「冬優子」はどんな女の子だ?

少しでも分かりたくて、少しでも手を伸ばしたくて、私はこれからも冬優子を追いかけていくのだろう。


冬優子へ: お誕生日おめでとう。


文: ナポリンP (@Napolin_P)

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