人は,自分が見たいようにしか見ない

いつの記事だったかは覚えていないのですが。
村上龍氏と坂本龍一氏の対談で「小説家や音楽家は悲しみの代弁者である」と話している記事を読んで,なるほどと思った記憶があります。

今更ですが,流浪の月という小説を読みました。
とある事件の加害者と被害者,そう世間から定義された二人の男女の物語。
このnoteは読後の個人的な感想です。
ネタバレを含みますので,苦手な方はご遠慮ください。


「人は,自分が見たいようにしか見ない」

これは本作品の中でヒロインが言った言葉です。この短い言葉に悲しみと,絶望と,そして孤独を感じました。
とある事件の加害者と被害者。正義の名の下にそう定義された世界。
当事者と非当事者から見える世界の相違と,おぞましさを増す世間の正義と善意。

被害者というレッテルを貼られた少女の前には「私はあなたの気持ちがわかっている」と言いながら,笑顔で,あるいは憐れみの顔で色んな人が近づいてきます。
少女の話には耳を傾けずに。

人は自分が見たいようにしか見ない。
というより、そういう風にしか理解することができないのかもしれません。誰もがみんな,自分の信じる優しさを体現したいから。
被害者に手を差し伸べられる人でありたい想いが加熱しすぎたとき、正しさはいびつさを増していくのかもしれません。

マザーテレサは言いました。「愛の反対は無関心である」と。では,愛の類義語はなんだろう。
僕は思います。「受け入れる」ことなのではないだろうかと。

この作品では「理解」が「無理解」であり,「無理解」は「理解」として成立していました。
ふたつの無理解は,まるで同音異議語のように別な意味として成ります。

いびつな正義を振りかざした世間は被害者の少女に対して「皆まで言わなくても全部わかっているよ」と手を差しのべますが,その実,何も理解していませんでした。
一方で,「あなたたちのことが理解できない」と面と向かって突きつける人もいました。それだけだとただの無理解ですが,救われるのは「理解はできないけれどそういう人たちもいる」受容してくれたことだと思います。

いびつな正義と形容しました。その意図は,本作で振り撒かれた大多数の正義は,「正しさ」ではなく「都合」だと感じたからです。

被害者らしく,かわいそうでいて欲しかった元カレ。
加害者らしく,悪人でいてくれたほうが都合がいい警察。
守るべき被害者と責めるべき加害者の関係の方がわかりやすくて都合がいい世間。

人は,見たいようにしか見ない。自分にとって都合がいいようにしか見ない上に,わかったふりをしてしまう。

ニーチェは言いました。「事実などない。あるのは解釈だけだ」と。
いびつな正義とは,解釈を都合でねじ曲げてしまうことなのかもしれません。
加害者と被害者の間にプラトニックな愛などあるはずがないと。
都合によってねじ曲げられた解釈,届かない真意,唯一の理解は放っておいてもらうこと…。

小説が悲しみの代弁だとするならば,これほどまでに悲しい現象が現実にも起きてしまいかねないことなのかもしれません。

この本を読んで,あまりにたくさんのことを考えました。
普段は読書感想文は別なアプリで投稿していますが,本作だけは書ききれない思いが溢れ出し,noteに書こうと思いました。

留意したいのは,全ての犯罪に対して寛容であろうということを書きたいわけではありません。
罪は法によって裁かれ,罰せられるものであり,それ以外の善い悪いは個人の倫理に委ねられます。善のイデア。
僕は読者として,あるいは第三者として俯瞰的にこのストーリーを読むことができたけれど,もしも僕が登場人物の一人であったなら,「善」の概念を都合でねじ曲げずにいられただろうか。

僕のような平凡な人間には理解ができないことは世の中にはたくさんあると思います。
人は見たいようにしか見ることができないのならば,せめて無理解なりにも受容できる人間でありたいと,そう願うのでした。

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