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自分のクセを知る

自分自身のクセの1つに「対象を絞りすぎる」という所がある。
言い換えると「目的を絞りすぎる」とも言える。


「対象を絞る」というのは当たり前のことではある。
例えば、誰かと何らかの会話をする時にどんな話題で話すだろうか?
例えば…

  • 同僚だったら仕事に関係ある話しで会話する

  • 家族だったら普段の生活に関わる

このように「その会話する相手にも関係ある話題で話す」という事を当たり前のようにするのではないだろうか。関係ある話題というのは本当に幅が広くて、「この人なら理解してくれたり分かってくれたりするだろう」と思われるものならおおよそ全てだ。

極論何を話したとしてもその人との関係ある話しになるかもしれない。
同じ空間、同じ時間、同じ〜…に生きている限り。

単純に会話を楽しむというレベルだったら、他愛もない話しで全然満足できるんだけど…自分の場合、「この人とだったらどこまで話す内容を深化させていく事ができるだろう」あるいは「この人と会話を続ける事でどれだけ自分を深くみていけるだろう」みたいな興味関心が強く出てくる。

より感覚的な言葉、より抽象的な表現、ともすれば見えないもの、エネルギー…そういった所へ行き着く自分の中で未だ形になっていないものを話みたいという気持ちが出てくる。

ただこれもはじめは本当に興味関心や「楽しい」が先行して進んでいるので全然構わないんだけど、ある一定のラインを超えるとそうではなくなってくるらしい。

ここはまだ自分の中でうまく言葉にできないけど、「迷子」になってしまう。当然「迷子」になった時はその会話相手はいなくなってしまっているから、森から抜け出すにはどうすればいいのか皆目検討がつかなくなってしまう。

これが結構自分にとっては大きな悩みの種とつながっていた事が見えてきた。

はじめに結論を書いたけど話し相手に合わせる、つまり「対象をしぼる」という事を極限まで進めていくと迷子になっちゃうのだ。

でもなんでこんな事が起こるのかなって思ったら、やっぱりそれは自分自身のせいなんだなと思う。

何でもいい、この日記でもいいし、TwitterでもいいしInstagramでもいいし…とにかく「自分が好き勝手表現している何か」に対して好意的な反応や共感を受けた時って嬉しくなる。

「だったらもうちょっとこれに興味を持ってくれた人に向けて対象を絞って話してみてもいいんじゃない?」

というごくごく自然な流れでこれが起こるのだ。
迷子になる前に帰ってこられればいいんだけど、いつの間にか制御を失ってどこかへ行ってしまう。

そして迷子のはてに「あ〜また困っちゃったよ。どう解決していいのか分からない」と木陰でしょんぼりしてしまう…という感じになるのだ。

何を取るのか?
どこに意識を置くのか?

対象はしぼるな。拡げろ。

もっと正しく言うなら、「好き勝手やっている時が一番ベスト」という事。
これをちょいちょい思い出したいものだ。

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