見出し画像

あるのにいただくことはできないのか

この3年ほどお金を稼ぐ!ということはしていないため、確実にお金は減っていますが、もう少しあります。

対話の場や巡礼に対して、お金をお布施していただくこともありますが、交通費や生きるために必要なお金のお布施を募ったことはありません。

巡礼仲間が0円になった報告とともに、口座をオープンにしたり、また最近であれば、巡礼者でなくとも、なにかの場、イベントなどを投げ銭制にしたり、セルフのクラファンみたいにして、口座を開放して、いただこうとしてる方もお見受けします。

前者は本当に0円になり、生活自体や巡礼ができなくなるため、お布施してもらう。

後者は、お金はあるけれど、表現活動に対して、お金をもらう。投げ銭、応援のニュアンスが強いように思います。想いや夢を託してもらうみたいな感じもあるかと。リターンがある場合もありますね。路上ライブを聴いて…とか、ものやスキルを受ける権利をもらったり。

生活に対するお金は、いわゆるお布施、見返りを求めずにお金を送る行為、あなたが何者であっても、存在に対して、お布施する感じかなぁと思います。

どちらも似ている行為だけれど、性質が違う感じがします。

お布施のほうも、応援はあるかもしれませんが、このお金を渡したところで、自分になにか返ってくるかはわかりません。手放すという行為を含んでいるように思いますし、なかなかハードルが高いように思います。お布施を頼む人だけでなく、お布施する人も一種の業や修行というか、人生において、大きな決断になるかもしれません。




僕の場合を想像したときに、今の少しお金がある状態で、お布施を募ることはないかなぁと思います。どなたからか渡していただくものは有り難く受け取るスタンスです。

もしかすると、0円でなくとも、表現行為に対する、いわゆる投げ銭や応援金は募ってもいいかなぁと感じています。贈りたい人のための場を用意しておいて。巡礼も一種のパフォーマンス、お金のこのプロセスや性やパートナーシップのプロセスを公にFacebookやnoteで明かしていたり、対話の場を開いたり・・・などなど、この辺は表現活動にあたるのかもしれません。

なるほど。書きながら、自分で整理されて、スッキリしてきました(笑)


そして、お布施に関しては、これから0円になったら、口座を開放するきがしています。



あ、でも、どうだろうか。

ここまで書いておいて、ちょっと違う感じもしてきました。表現に対するお金とお布施で分けましたが、この辺はボンヤリとしているきもします。僕の意識的には、先ほど書いた表現活動は、いわゆるお布施として、やっていることもあるので。

でも全部お布施ではないかもしれません。同じことをしていても、状況によっては、表現活動の意識としてやってることもあるかもしれません。

ほお。おもしろい。


このボンヤリとしている感じが逆にいい気もしています。自分の中で、切り替わりがある。一定ではない、生物みたく生きている感じというか。


でも、棲み分けされたことでスッキリ、しっくりもしています。この今生まれた定義を一旦置きつつ、動いてみながら、どうなるかを試していこうと思います!


書きながら僕も気づくという、ライブパフォーマンスしているようです。このプロセスにお付き合いしていただいて、読んでいただいて、ありがとうございます!

ありがたく受けとらせていただきます〜!