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言語化出来ないとき

多分ですが、僕の脳みそはおそらくネジが5,6本抜けていると思います
割と頭おかしい側っすね
その辺はまぁ、周囲の方からも変わっているだとか、難しいだとか言われるから間違いないはず

抜けたネジがどこにあるのかはさておき、
今日は2パターンについてチラシの裏レベルで書いていこうかと

ネジが抜けていると安心?ネジが締まっていると安心?

大半がネジが締まっていた方が安心です
当たり前
ネジゆるゆるのガタついた車になんて誰も乗りたくない

しかし、たまーにそこら辺がちょっと壊れてる人もいる
僕みたいなの

世の中、ひいては社会って、規範と規則があって当たり前
それを守るからこそ守られているわけで
僕はこれをネジが締まっている状態と呼びます
要はこの枠からはみ出たくて仕方ないんす

ネジが締まっているってことは
安心なんすよね
基本的に
その安心が信じられないから、僕のネジは壊れていったんす
何度も自宅のカギを閉め忘れていないか心配するように
僕はちゃんとネジが締まっているか、信じられない

結果としてはちゃんと締まっているし、
安心していいんすけどね
僕には出来ないってだけで

メメントモリ

この言葉をご存じでしょうか?
最近はアプリゲームでCM打ちまくってるからなんとなく聞いたことあるかも
以下はwikipedia様から引用です

古代ローマでは「将軍凱旋式のパレードを行った際に使われた」と伝えられる。将軍の後ろに立つ使用人は「将軍は今日絶頂にあるが、明日はそうであるかわからない」という戒めを思い起こさせる役目を担当していた。そこで、使用人は「メメント・モリ」と言うことによって、それを思い起こさせていた。

ただし、古代ではあまり広くは使われなかった。当時、「メメント・モリ」の趣旨は carpe diem今を楽しめ)ということで、「食べ、飲め、そして陽気になろう。我々は明日死ぬから」というアドバイスであった。ホラティウスの詩には「Nunc est bibendum, nunc pede libero pulsanda tellus.」(今は飲むべきだ、今は気ままに大地を踏み鳴らすべきだ)とある。

この言葉は、その後のキリスト教世界で違った意味を持つようになった。天国地獄の救済が重要視されることにより、死が意識の前面に出てきたためである。キリスト教的な芸術作品において「メメント・モリ」は、ほとんどこの文脈で使用されることになる。キリスト教の文脈では「メメント・モリ」は nunc est bibendum とは反対の、かなり徳化された意味合いで使われるようになった。キリスト教徒にとっては、死への思いは現世での楽しみ、贅沢、手柄が空虚でむなしいものであることを強調するものであり、来世に思いをはせる誘因となった。

京都学派の哲学者として知られる田辺元は、最晩年に「死の哲学(死の弁証法)」と呼ばれる哲学を構想した。その哲学の概略を示すために発表された論文が「メメント モリ」と題されている。田辺はこの論文の中で現代を「死の時代」と規定した。近代人が生きることの快楽と喜びを無反省に追求し続けた結果、生を豊かにするはずの科学技術がかえって人間の生を脅かすという自己矛盾的事態を招来し、現代人をニヒリズムに追い込んだというのである。田辺はこの窮状を打破するために、メメント・モリの戒告(「死を忘れるな」)に立ち返るべきだと主張する[1]

何を意味するのか

僕の解釈は簡単に一つだけ
「常に死を思え」
これだけっす
死を思うとはどういうことかって、人間いつか死ぬってことを忘れんなって話っす
僕はこれをさらに広く解釈します

いついかなる時でも殺される覚悟をすること

何に?誰に?
知りません
病気だとか事故だとか他人だとか色々あるでしょうそんなの
死ぬんじゃありません
何かに殺される
例えば時間とかに

これを僕は忘れたくない

イカレてるでしょ
毎日毎日、死ぬ可能性を考えていないと生きていけないんす
死んだら、まぁいっか、仕方ない
ってレベルで生きていきたいから

あれ
全然違う話になってきた
どうしよう

何を基準に考えているのか

方向性を戻しまーす
そんな鉄砲玉みたいな発想していたら
危険思想の持ち主だと思われそうなので(多分そんなに間違ってないけど)
言い訳させてください

規範、常識、ルール、社会
そういったものから外れたがる僕が何を基準に善悪を考えているのか

倫理であり、道徳であり、何よりも敬意っすね

詳しいことは偉い人の本を読みましょう

僕は基本的に誰に対しても敬意を払います
…最初はね
そこから先はかなーーーーり人を選びます
選ぶでしょ?
選んでないなんて言わせないっすよ
人は意識的にも無意識的にも、他人を分けているんですから
この辺は今度詳しく書きたいなーです
今度が毎日増えてる気がする

敬意を払ったうえで邪険に扱われるのであれば、もういりません
必要が無いからです
一応ですが、年齢という概念に対しては敬意を払います
そりゃ年を取っているわけですから
あくまで年齢にであって、その人個人にではありませんが

あ、僕が敬意を払わないって、よっぽどですからね?
そこまで突っ張りヤンキーじゃないっす

それだけで十分なんすよ
判断なんて
敬意を払う必要のない人からはさっさと離れる
時間の無駄だから
仕事上もちろんある程度必要なこともあるけど
それは仕事の相手に対しての敬意…元を辿るとお金に対しての敬意でしかない
だってお金のために働くんだもん
そうでなきゃ仕事なんてやってれない
もちろんぜひ今後も付き合いたい人がほとんどだけど、たまーにいるんすよね…変わったタイプの人…
僕が人のこと言えないか

まーとにかく

こうなると言語化が上手く出来ない
敬意ってなんだっけって自問自答してます

とりあえず一つだけ言えることは
可能な限り偏見を持たないことっすかね
多様性多様性言われていますけど、どこに線を引いたらいいのかってとこ、最近問題が多いような気がする
その中で明確な線なんて引けるようなもんじゃないと思うんす

例えば性別もだし、年齢、経済的な生活環境、色々あるじゃないっすか
そこに対して、何よりもまずフラットな状態で接したい
自分の世界を広げるために
一個人を尊重したい

結構大切だと思うんだけどなぁ…とか思いつつ
まー仕方ないかとか諦めてもいたり

どうやったらうまいこと世界平和って出来るんすかねー?



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