鋼の夜 8

 部屋にインターネットは引いていなかった。
 ガラケーを使って数年経過していた。どうしても知りたい情報は、綱島の快活CLUBまで足を延ばした。通信費を抑えるため、と最初は思っていた。しかし事態がこうなると、知らない情報が増える一方だった。
 カーテンを閉め切って生活していると、気が変になってくる。部屋での仕事とはいえ、自然光が恋しい。駅前の坂道に適さない稼業だと痛感した。
「引っ越せばいいじゃん」
 土井が言う。尾高は嘲笑う。間違っていない。ここに決めた頃は森に近く、散歩に適していると思っていた。窓一枚とカーテンで、麗しい騒音は防げると思っていた。
 それは全部、外れた。
 見通しが甘かった。カーテンがなければ、露出狂と変わらない。制服のJKが入居すれば、リアリティーショーの題材になるだろう。視聴率の上昇に伴って、駅前の経済も活性化する。投げ銭を要求すれば、手っ取り早い商売になる。
 チラシが入っていない日はなかった。ポストの横に、毎日大量の紙が積もっていた。どれもDMだ。たまに前の住人宛ての紙もあった。 
 土井の封書がいつになく分厚かった日、思わず背筋が伸びた。
 なぜなら、塀の中で時間を割いて枚数を稼いだからだ。次の面会までに、相当な量の感想を用意しなければいけない。アクリル板を隔て、またぶつぶつとあいつは不満を漏らす。
 封書を開くと、手紙の他に何か別の文章が加わっているのがわかった。
B5の用紙に、横書きで書いてあった。タイトルは『バスジャック・イン・レイキャビク』とある。佐崎の口から聞いた後、書いたものだろう。
 濃い鉛筆で丁寧に、外見からは似ても似つかない達筆だった。
 この字を見て、誰が傷害罪で捕まった男だと判断できるのか。
 あいつが優遇区分にいた理由がわかる。以下は、俺が読んだままを載せている。
 

 轟音が窓を貫いてくる。バスは速度を落とさず火山に近づいている。車内で口を開いている者は誰一人いない。皆、押し黙るか、元々言葉を捨てているかどっちかだ。
 空色が一瞬だけ赤く染まると、目を開いてその様子を見る。不思議と震えも、冷や汗も感じなかった。あるのは隣の野郎が吐き出す煙草のけむり。後ろの席から時々聞こえる咳払い。
 それに、ケンタッキー・フライド・チキンの匂い。
 空腹を満たすには十分の匂いが車内を包んでいる。どこかに座っている野郎が唾液まみれでチキンに被りついたらしい。
 ふざけるな、と大抵の人間は思うだろう。
 だが同じ現場に向かう者が何を食べようと知ったことじゃない。むしろこんな狭い所でよくぞ美味しい匂いを届けてくれた、と感謝している。
「おい、あれ見ろ」
 誰かの声。随分久しぶりに届いた人間の声だった。
「あんな所に仕事なんかあるのかよ。ふざけるな。俺たちもう何時間も揺れているんだぜ」
 こいつ、終わりだ。
 これから何をするか、まるで理解してない。
「まさか火山の中に飛び込めってんじゃねえだろうな。骨すら残らねえよ」
 その、まさかが現実になる。
 冷静に考えれば、このバスがタイタニック号じゃないことくらい気付くってもんだ。氷に激突して解体する運命にはないが、火に触れて灰になることはありえる。
 俺たちがいつそうなってもいいように、走り続けている。
 当分の間、止まることはないだろう。
「あんたも新入りかい? 浮かねえ顔してるからよ」
 後ろからの声だった。
「このバスに乗れと。それだけ聞いてますけど」
「……どこから来た?」
 答えなかった。代わりに、聞いてみた。
「この辺り、初めてです。ほんとに大丈夫なんですか? このまま炎に包まれて灰にならない理由もなさそうですが」
 男は苦笑いして、
「あんたの言うとおり。俺たち、バスに乗っただけだよな。大やけどしたいわけじゃない」
「火傷で済まないだろ」 
 今度は斜め前、さっきから香ばしい匂いを発散している男が言った。
「バスごと突っ込むかもしれねえし。フライドチキンどころじゃねえし」
 車内は再びタイヤだけの音になった。
 ああ、そうだ。このバスが火山に浸かれば、俺たちはチキンどころじゃなくなる。骨? そんな前時代的物質すら残らない。
 窓外の景色は明るい。日暮れとは思えない空色だ。近くの山が噴火しているのか。朝から覆った鉛色の空が変色している。牛の血、もしくは捨て忘れたナプキン。いずれにしても、見たことがないほど濃い空だ。
「いろんな現場渡り歩いたけどよ……」
 男は言う。
 決まって「こんなひどい現場は初めてだ」と愚痴る。その確率はとてつもなく高い。
「こんなにひどい現場、ラッキーだと思わないか」
「……火山の近くが、ということですか」
 意外だった。迂闊に他人の答えを判断できない。
「ああ。人が暑くて暑くて逃げ出す状況で、俺たちだけ呑気に駆り出されてる。ラッキーだろ。あんたも自分で乗ったんだから、ラッキーだと思うだろうよ。さっきのあいつ、フライドチキンを食いちぎってる野郎の野次なんか気にしなくていい。何人もああいう小心者を見て来てるんだよ」
 男は笑っている。
 チキンの匂いが消えることはなかった。袋を開けた途端、鼻をつんと裂くような匂いがしたのを覚えている。
「腹、減ってるならもらえよ。あいつだけいい思いはさせねえ」
「構いませんし、俺のことは空腹も慣れているんです」
「でもよ、いきなりチキン食い出すか? ムカつかねえのかよ」
「慣れているんですよ。本当に」
「ばかやろう。お前だけ食ってねえの知ってんのかよ。お前以外、バスに乗る前に食ってんだぜ」
 どうやら、バスの内訳が見えてきた。
 
 1、火山地帯へ急いでいる。2、どんな仕事か聞いていない。3、腹をすかせているのは俺だけ。4、フライドチキンの匂いが充満 5、フライドチキンの袋を開けた男に、見覚えがある。
 
「おい、見ろ。車だ」
 男が顎で指す。窓を見た。黒いメルセデスベンツが猛烈なスピードを上げている。
 おかしな話だ。もうじき溶岩がタイヤにも迫る道路に高級車が走っている。
「いつから付いてたと思う? あいつ、そのベンツは発車したときからずっと付いてきてる。俺たちが心配で心配でしょうがねえんだろ」
「まさかチキンの残りを食おうとしてんのか。相当に腹が減ったんだろう」
「そりゃあんたの推測だ。女を見ろ。ハンドル握ってるぞ」
 その瞬間、ベンツはさらに速度を上げてバスを追い越していった。
 短髪以外、確認はできなかった。
 もちろん、名前は知らない。
「いろいろ解説しねえとわからんだろう。まずあの女もスパークスに向かっているのは確かだ。火山の隣、世界で最も火傷しやすい地域にさ。俺たちもそこに向かってる」
 事情は理解している。
 俺たちがなぜバスに乗り、わざわざ火山地帯へ足を踏み入れたのか。そいつは辞書を引くより単純な行為だ。直にわかる。
 ベンツが消えた窓外に変化はなかった。この辺りは見渡す限り乾いた土だらけだ。草木はもちろん、蛙も鼬も姿を見せる気配はない。人々はというと、活火山近くで住んでいる。住宅街が点々と過ぎていくのを捉えている。
 席を外し、チキンの匂いの方へ移動した。男がきょとんとした面で背を追った。
「やめろ、何する」
 片手のフライドチキンに被りついた途端、声が漏れた。
 最後の一本。
 俺が口に入れない確率など低いに決まっている。選挙における若年層の投票率と、そう変わらないだろう。 
「やめろよ」
 涙目だった。俺は口を動かしながら、今度は運転席に向かった。
 何人かは相変わらず黙っている。
「スパークス、あと何分で着く?」
 運転手はこっちを見ない。いや、鉄仮面の中で視線だけ動かしたのかもしれない。
「荒っぽい野郎ばかりで酷だろうけどさ」
 運転手の手が上がった。
「四分だ。とっとと座れ」
 左手四本の指すべてを伸ばしている。
 小指なしの鉄仮面ドライバー。どうりで楽しいバス遠足なわけだ。 


 ここで物語は終わっていた。
 なぜケンタッキーに尾高を置いたのか、理解出来た。この時点で流れをあいつなりに作ろうとしていたようだった。尾高は死んだ。最後の晩餐がニワトリだったのかわからない。
 土井も尾高も、佐崎滋朗という老木に絡めとられていたのは確かだろう。俺を呼んで、どうにか脱しようとしたのかもしれない。
 物語の中で、いくつか気になった点。スパークスなる地域に、モデルは存在するのか。俺がこれから向かう地域を差しているのか。
 土井はムショに入るまで、北欧諸国に関心はなかった。佐崎の言う通り、黙々と作業をこなし、面会の度に現況を知らせた。その後、水死体となって発見。この国では珍しい銃弾の跡があった。
 未明に銃声を聞いた、と報じている。死体は尾高が発見している。あのドラキュラみたいな男が撃った証拠はない。
 尾高に知らせる意図。それは、自分以外の誰かが撃ったとヒントを与えているためだ。 
 佐崎滋朗の手先がいる。
 土井を消し、俺に狙いを定めている。
 この部屋を出る必要があった。