創刊サンデージャーナル 5

 ところ変わって老朽化激しいビルの一角。エレベーターも年季が入っている。このまま地獄行きなのか定かではない。そのせいで幻の国と揶揄する人があとを絶たない。「エレベーターから恋が始まる」と言ったが最後、しばらく軟禁状態に陥る可能性も否定できなかった。各階のオフィスの向こうにたどり着くには、至難の業であるらしい。
 一方で隣のソープランドには作家の姿も見えた。日々文筆業の鬱憤を晴らしているようである。原稿を出したついで、一風呂浴びてさっぱり、というわけである。
 なんたって新しい文芸誌のタイトルが決まらないのである。会議では漢字一文字が望ましいだの、従来どおり二文字か三文字で付けるべきだの、互いの唾が飛ぶ盛況ぶりだった。仕事でこれだけ燃えていては、白い泡も消えそうだ。
「作家も、言葉を編んでいます。世の女性陣が身ごもってる間も必死で文章を書いているんです。次、生まれる子が男の子であれ、女の子であれ、その女性が親になるのは避けられません。私、叔母バカですから、姪が花嫁になるまで愛される作品を書いてほしい。そんな思いを込めています」
 紅一点のアシスタント、春野ゆきは言った。その隣、春野の横顔を見ながら微笑む作家、Nが口を開いた。
「確かにお腹の子は男の子なのか、女の子なのかわかりませんよね。きっと春野さんの名付けた雑誌名には侮蔑の意味があるはずです。ね、そうでしょう?」
「Nさんの言うとおりです。私も、言葉の方を産み分けたいんです」
こうして古いビルの一室が賑やかなのは、一応の作家が訪れるからであった。壊れそうなエレベーターに乗って、はるばる編集部のドアを叩くのである。〈幻の国〉とは作家が命名し、錆びたドアの前で怖気図いて帰ったからにほかならない。一方で本が売れた作家は泡を求めて隣のビルに消えていく。編集長ゴンザレスの目で何度も目にした光景だった。一体、泡姫とは誰が名付けたのだろう。風呂場に敷いたマットは、殿方を夢の箱舟に乗せようとしている。
 それにしてもNの目は真剣だった。この男、目の色が変わった試しがなかった。グラシアス、と聞いて意気投合したのは三月の晴れた午後のことだ。
 窓の外には桜並木が見える。ひとひらの桜の葉であっても、スナイパーが撃つだろう。ゴンザレスは威嚇を歓迎していた。編集部にぶち込むなら今だ。銃声なんて怖くない。教室で聞いた、自分を拒絶するあの声よりも、朝の耳には堪えるのである。目が覚めた野良猫たちも、桜の下を潜り抜け、銃声の音に耳を澄ますに違いない。
 
  仕事を終えた春野は商店街のから揚げを手に取り台所に消える。手料理は得意。頭に過ぎっては消えて、実家の母が今頃、妻になる自分を笑うのである。この唐揚げが美味しいわけは、油で揚げた衣の歯ごたえがよく、温めたお皿に乗せると充分、食卓に映える点にあった。お皿も温めるべし。日頃からそんな気遣いを忘れたことがない。そこへ自分で揚げたきんぴらごぼうを添えても、真っ先に唐揚げの方へ箸を向けると目に見えていた。まるでコンパの視線のように。友人はキャビンアテンダント、というわけである。
 別に夫に不満があるわけでもない。まだ膨らんだことがないお腹に聞くと、「嘘、じゃあ、どうして作家のアシスタントに応募したんだ?」と返ってくる。
 どうして。そう言い聞かせている内が華、と働く自分がつぶやいた。思えば母の背中を最後に実家を出たのは十八歳。桜が散る間際に朝の電車に乗って、ホームで両親、伯父伯母、姉夫婦、駅員、それに見知らぬ他人のおじさんに見送られ、ハンカチで涙を拭う大人たちの姿に苦笑しつつも旅立ったのだ。レールの音を聞きながら、いつしか体育館の校歌も過去のものに、『巣立ちの歌』も遠い記憶となった。月日が経っていた。春野ゆき。旧姓、秋野夕紀。時は昭和の暮れ、子供たちが絵日記を宿題にした長い夏のある日、次女としてこの世に産声を上げた。母子ともに健康だった。今年で二十八歳である。
「Nさん」
 名前を呼んだ横顔に恋心がにじむ。N。もちろんペンネームである。
「私、Nさんのこと……」
 いけない。晴れた日の午後、口にするセリフではない。ここは女性アシスタントらしく、作家を悩ませるにはいかないのだ。
 と、主婦である自分がつぶやいている。
 そこで春野は考えた。印象に残るタイトルを考えた。編集部で何度も会議をしては没、また没の繰り返し。肝心の雑誌名が未だに決まっていない。
 女たちがベッドで汗ばみ、太くたくましい腕に抱かれては吐息を漏らす名演技で、一体、どれだけの日数を夫に対して喜ばせてきたのか、今さら知る由もなかった。ある晩は「ゴムが足りなくなるわ」またある晩は「ゴムが足りないわ」と甘え、日頃、嫌な上司に頭を下げては愚痴をこぼす最愛の夫を笑顔にしている。くわえ込み、目を閉じて大量噴射を受け止めて、スイカに被りつくかのごとく口を密閉したまま、ピルと同じように飲み干してみる。今宵、気持ちよさに頭も〈真っ白〉である。
 春野はさらに考えた。ペンは滑らかに紙の上を動いた。いくつか雑誌名を候補に挙げて、編集長に提出しようと躍起になった。もうすぐ創刊である。
「やっぱり、日本らしい題って使い古されている気がします。サクラとか」
「そうだね。文芸誌にフジヤマだの、ゲイシャだの、ハラキリだの、トルコ風呂だの使っても、日本の観光案内にしか見えないだろうね。例えばスカートの短い女子高生の写真を表紙に載せて、文学をアピールしたっていいと思うよ。ほら、昔から郷に入ってはって言うじゃないか。ここは十代の女の子の肌を見せて、海を越える必要があるんだと、僕は睨んでるよ」
 ゴンザレスは言った。
「その路線で行きましょう」
 Nは言う。
「ジャパニーズ・ガール路線で行きましょうよ」
 春野は思った。自分も制服を着ていたのだ。生足を真冬にさらし、飢えた狼さえもかぶりつきそうな太ももで、毎朝自転車にまたがり、学校へ向かったのだ。
 反抗期もあった。あれは高校一年生だった頃、なぜか家に帰りたくないと電話口で母に言い、そのまま友人宅へ泊まってしまった前科がある。翌日の朝、釈放された女テロリストさながらの表情で帰宅した瞬間、烈火のごとく母の怒りに触れてしまった。秋野夕紀、十六歳の夏である。
 制服が桜色と一体誰が決めたの。今やエプロン姿しか望まれていない現況に、飽きてもいる。それに大方の男性が喜ぶ裸バージョンも、いよいよピークを迎えていた。二十八歳。おそらく十年後には無理がある。だからこそ今、夫が背中から抱きしめてくれるのなら、と想像してみる。寒気がした。おまけに油が飛んだら大変だ。白い肌を炒めてしまうだろう。しかしその日の晩こそ、ようやく手料理から解放されるのかもしれない。唐揚げを食べて胸が大きくなるとはよく言ったもの、程よい大きさを保つことができている。そうだった。クラスの男子がホックの外し方について苦心している頃、女子の会話は最後まで向かっていた。つまり、痛いのか、どうなのか。まさに今、同じような気持ちで考える自分がいる。初めての☆体験だった。
「今度は、春野さんも審査側だよ。次のオーディション」
と、Nが口にする。
 既婚であると隠しつつ、短編小説を朗読。キスマークひとつで書類審査を突破し、今度は声に出して大役を務めたのも今は昔。あれも日々の生活から逃れるため、自分だって主婦のままでいたくない気持ちが功を奏して、見事〈採用〉の二文字を受け取った。二十八歳を迎える自分だって勝負できる。そう信じてドアを開いたのだ。今度は自分が審査する番である。緊張した面持ちの現役JKと会う。なんて言葉をかければいいのだろう。春野は早速、意地悪な質問を考えた。「自分の血の色、見たことある?」 
 私はイエス。あなたの年齢だった頃はもう始まってたわ。 
と、先輩風を吹かしてみる。
 自分がアシスタントの面接に向かった朝、外が白く染まって見えたのは、果たして気のせいなのかどうか、判断がつかなかった。ちょうど映画を見たあと、劇場の廊下が明るくなる感じと似ていた。春の光は、世界を幻にする。映写機は回っていた。見えないところから、面接に向かう自分の背を、そっと押してくれたのだ。
 いよいよ桜が散り始めていた。かつて男の子に恋した季節でもあった。好き、の一言が言えない。恋は、みずいろである。

 オーディションに駆けつけた有希は、「制服で来い」と指令を受けていた。これは別に男性客を接待するわけではない。他の衣装が許されなかった。きっとヘミングウェイでさえも、大海原の航海を終えて、その可憐さに筆を置くだろう。あるいはウディ・アレンなら、めがねの奥を丸くして、撮影を止めて求婚を迫るに違いない。華の命は短く、スカートも然り。ついでに言うと、男性の視線を釘付けにできる年齢であることを証明している。奇しくも、女性アシスタントと同じ名前であった。
「有希です。本日は、よろしくお願いします」
 ここで今日ではなく、〈本日〉と使ったことに意味があった。本日の方がより丁寧に聞こえる。大人に好印象を与える、最初の一歩でもある。ちょうど初めて彼氏の母親に会う日と状況は似ていた。わたし、清楚で、可憐で、いい感じのお嬢さん。もう一度。私、清楚で、可憐で、いい感じのお嬢さん。あとは棘のある言い方を避けて、丁寧にお辞儀ができれば採用に近づける。表紙オーディションも甘くはない。
 編集長らしき男が口を開いた。
「では、有希さん。簡単な自己アピールからお願いします」
「はい。私は先生が好きでした……西の空がオレンジに包まれる時間、自分からスカートをたくし上げて下着を見せることから始まるんです」
 目の前に三人の大人がいた。一人に見覚えがあった。みんな学校の先生みたいである。スペイン語を専攻したわけでもないのに、あの男は視線を外さない。
「では、もう一度、別の言葉で自己アピールしてください。時間は無制限。どうぞ」
「先生がそういうから、私のスカートはいつもめくれています。朝、鏡の前でクルって回るのに、今は萎れたお花みたい。そんな花、ミツバチだって寄りそうにないと思います。私は、腫れた果実でいたいのに」
 有希の胸はセーターの上からも膨らんで、男子の目を否応なしに惹きつけた。固い決心を胸にしても、みんな同じ視線で見ている。そう気付いた矢先、〈書類審査合格〉の通知を自宅ポストから受け取った。
 一次オーディションは朗読。二次オーディションは対談。いずれも編集長、作家、女性アシスタントを交えての現場である。最終審査を終えて、およそ一週間後に採否を文書で送る、という流れだった。一体、部数が少ない雑誌の表紙に、なぜここまで段階を踏まなければいけないのか、理解できなかった。当然、一般からの応募である。他人の顔色くらい見抜いていた。日頃の読書の賜物であった。笑う、微笑む、嘲笑う。それらを上手く出そうと空回り、大人が高笑いを浮かべる地獄絵図が目に見える。朗読には自信があった。声は、いつも正直だからだ。マスクを被った大人に出せない声を出そう。ノーメイクで。十六歳らしく。有希の胸は、一段と躍るのだった。(つづく)