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創刊サンデージャーナル 4

 その参 この胸のときめきを

 さて、村でただ一つの中学校にJCと共に訪れた男がいた。A君、B君の母校である。少子化に伴い、近年では男子卓球部の人数も激減、テコ入れのため、遥々山の向こうから赴任してきたのである。
 今朝もクマゼミが俺の季節とばかり鳴き続ける。
 それにしても夏の暑さは続いている。レッツ、ピンポンと胸が高鳴る朝である。
 なぜって今日は登校日。青い空もうつくしい。日が射す窓の向こう、勤務先の学校も光の涯に輝くようである。卓球部の顧問って、どんな仕事なんだろ。教師Nの胸は弾む一方だった。生徒たちは夏休みの途中経過を報告、それから部活動に入るらしい。断る気はなかった。なぜって元卓球部にして初めての顧問を務めるのだ。一日だけとは言えこれ以上の機会はない。手当? なくたっていいさ。だって今日はもう一人、女子を連れているもん。
 体操着に着替えた胸のふくらみは否応なしに男子たちを惹きつけている。洋ナシが入っているのだろうか。否、ただ膨らんでいるだけであった。
「はじめまして。私の名は有希です。三年生になってから、今日の朝まで一度も学校に来ていません。みんな、今日はよろしくね!」
 はい! 
 と、響き渡ったのは言うまでもない。何を隠そう、男だらけの卓球室に天使が舞い降りたのである。
 Nは言った。
「では有希さんと一人ずつ対戦してもらうね。みんな、いいかな?」
 反応はなかった。まるで谷底に落としたボールみたい。そりゃそうだ。恥ずかしくて急に対戦はできない。なんたって目の前には巨乳。またの名を有機性果実。手を挙げるとなると相当な勇気がいる。誰が言ったか「鎮まる卓球部ほど熱心」とは至言である。 
「ちょっと、みんな私とヤリたくないの?」
 さらに凍り付いたのは言うまでもない。Nはとりあえず一人の男子を指名した。
 練習場は体育館の上にある。二階から覗くとバスケ部がいつも練習している。時に罵声も飛びつつ、みんな部活に汗を流す。ピンポン然り。Nが選んだ生徒もまた、この暑さの中で自分に当たらないようにと願った顔である。みんながいる後ろ、目立たないように息を潜めていた。
 彼、どう見ても運動部の気配がない。色白で背も低い。メガネである。
 尤も、わが国では眼鏡率の上昇とピンポン熱は比例している。
 声が飛んだ。
「もう一回、しようよ」
 有希は笑顔を見せる。胸躍らせて球を打ち、少年たちをどこまでも鼓舞する姿は、紛れもなく天使であった。
 
 その数時間前のこと。Nと有希は灼熱のグラウンドに立っていた。別に季節外れのバレンタインを奏でるわけではなさそうだ。
 空は見渡す限り青だった。雲一つ見えない。これではカラスも黒い天使のままである。イルカのように悠々と泳いで眼下の人を狙うようだ。何も落ちてくる気配はない。落下物から子供たちを守るには力がいる。コンビニの前でたむろする若者を退けたり、痴漢を取り押さえたり、冤罪を仕込む女の子の頬をビンタするくらいの力が必要だ。
「あの、先生……」
 少女の声は細かった。ついさっき廊下で聞いた声と変わらない。
 頭上に戦闘機が通り過ぎてもNの耳は生徒に向けられたままである。
 廊下での会話。遅れた生徒を迎えて一言、
「有希ちゃん……」
 おっと、ちゃん付けは規定違反になるため、姓で呼ぶ必要があった。
「有希ちゃん、今日が登校日だって知ってた?」
「はい。でもめんどくさいと思って行きたくなかったんです」
「僕もそう思ってた。本当は遅刻した理由について、廊下で吐かすつもりだったんだよ。一学期に皆勤賞を取った君が休むわけないと思ってたからさ。みんながいる教室に戻らせず。そう言い聞かせていたんだよ」
「あ、それ万引きした子に言ってください。ヤラせてくれたら許してやるみたいな」
「すごいこと言うね」
「だって何も言わないって嫌じゃないですか。マスクした大人みたいで」
 Nは生徒の肩に手を掛けて廊下を歩いた。夏の光があふれている。二人の影が仲良く並んで床に伸びている。なぜこの子が学校に遅れたのか、今さら知る由もない。別に近所の悪がきにスカートを引っ張られたわけでもないだろうし。
 授業が終わったら、グラウンドで遅刻の理由を吐かそう、とNは思った。廊下や職員室では人の声が聞こえて耳障りなためである。かくしてNは有希を外へと連れ出した。夏の太陽が照りつけている。熱く湿った風が吹いている。きつね色に焼いたグラウンドには人の影がない。ここで部活動でもすればいいのに。あ、水を飲んではいけないから駄目なのかしら。
 有希はNの前を堂々と歩いた。夏服がまぶしかった。
「有希ちゃん。もしこのグラウンドが透明なら、どうする?」
「下着を履きます」
「先生が聞きたいのはね、スカートの中身じゃなくて、空の色をしっかり直視できるかってこと。うつむいたままでも見えるけど、しっかり上を向いてほしい。だって透明なガラス張りなら、太陽が反射して目が潰れちゃうだろ?」
「あの、先生。ちょっといいですか? 私、ちゃんと上を向いて生きてますよ」
「じゃあ証明しなきゃ」
 殺人的な日差しのもと、Nは決意した。放課後の部活で暴れてやろう。せっかく卓球部の特別顧問を頼まれたんだから。男子諸君よ、今から巨乳の女の子を派遣するから、その目に刻んでおけ。
 Nは胸躍るのだった。 
 
 有希。この子だけはなぜか姓がない。
 これは一体、どういうことだろ。別に姓を盗まれたわけでもないのに。
 Nは一人、自宅まで考えた。暑い一日だった。丘の上の森から、蝉がやってきては勝手に騒ぐ季節である。
 月の給与で飢えるわけではなかった。例えば今日話した生徒と恋に落ち、文字通りスカートがなくなる夜をすごせば……。
 Nは首を振る。いけない。ボタンは押せない。
 学校には来ている。一学期に一度も欠席も遅刻もなかったのである。それがどうして今日に限って遅れたのか分からなかった。まさか双子? それとも幽霊? 違う。足はちゃんとあった。声が残っている。否、ただの妄想だろう。
 例えば、こんな声。「私、やっぱり先生と会うみたいです」
 駄目だ。Nは振り払うように首を振った。アパートは静かだった。誰かが忘れた麦藁帽子の中のように、とても静かだった。
 しかし蝉の声は止んでいない。狂おしいまでに鳴き続けている。もしシャワーの音が聞こえたら、二学期からの給与もなくなるだろう。
 そしてこんな声も聞こえてくる。
「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 
「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 
「いけませんね。教師が聖職じゃなくなりますよ、自宅に連れ込むなんてもってのほか。私だったら嫌です! こんな先生! 娘を安心して預けられないじゃないですか! 最近の教諭ってモラルみたいなものあるんですかね。駄目でしょ、こんな先生は」 
 相も変わらず姓を知らない。ゆき。ある日突然、綿雪のように降りた名前である。
 八月が長い、とは誰が決めたのか。十五日までが遠いのか、十五日からが早いのか。盆が過ぎて腐乱死体が出る部屋になってはいけない。そのため蛇口をいつでもひねっては、とりあえず温い水を口に運んでみる。不味かった。
 Nはワイシャツに着替えた。女子のような姿見がないため、こうして歯磨きと同じ鏡で整えなければいけない。当然ユニットバスは狭い。当然のごとく足場も余裕がない。唯一の鏡がこんなサイズで上半身のみ判別が辛うじてつく。ヒゲも剃った。あとは長い一日を迎えようと、ため息混じりで学校へと向かう。それにしても狭い洗面所であった。女子生徒が一人入るのがやっとである。
 部屋に飾ったカレンダーを直視、1、2、3と四角い中に数字が入っている。チェスみたいに隅の方をなぞるわけにもいかない。
 しかし、学校までの道路に異変が起きていた。作業に入る人が大勢いる。誰が見ても「真っすぐは無理だ」と思うはずである。近寄ってはいけない。何かが始まるようだった。
 さて、教室の扉を開ける。何日かぶりに会った生徒の顔は日焼けしていた。痩せた子はさらに痩せ細り、太った子はやはり太ったままであった。
 そういえば。
 男子卓球部の顧問を頼まれていた!
 事の発端は〈N先生、登校日だけお願い❤〉とメールが来たからである。 なぜかニヤニヤしていたのも今は昔。
 あ、そういえば。
「中学の頃、卓球部だったんです」と、二つ返事で引き受けたのだった。おそらく新米教師に仕事を増やそうと仕組んでいたに違いない。蚊取り線香が燃え尽きるまで、一体どれだけの蝉が産声を上げるのだろう。登校日だけお願いと言われ、意気揚々としたのも束の間、やはり暑さは堪えるのだった。
夕暮れが誰かの悪戯なわけがない。日が沈むその時まで時間は充分に残されていた。
 教師Nと有希は仲良く下校している。
「先生、来年も、会えますか」
「わからない。君が女子高生になれるなら、いつでも会える気がするよ」
「私、ほんとは学校なんか行きたくないです……好きなことばかりやっていたいんです」
「そういえば卓球室で言ってたね。三年生になってから、今日の朝まで一度も学校に来てないって」
「あれは芝居です。初めて遅刻した日なんですよ。なぜかわかりますか?」
 Nは考えた。まさか、俺に告白の準備をしていたからなのかしら。
 それとも。
 遅刻についての証明を解きたかったからなのかい? 
「正解は道路が封鎖したせいです。以上」
「そういえば」
「はい。不発弾を発見したとかなんとか。誰が落としたか知りませんけど」
「撤去したみたいだよ。先生も回り道したけど。おかげで君と出会ったわけ」
「私、グラウンドで聞いたこと。実行できるかわかんないです」
「大丈夫。面白くないとはっきり言える、そんな自分を高める場所に行けばいい。グラウンドじゃなくてもいいし、どこかの練習場じゃなきゃいけないルールもない。そこを強みにして、ステージを駆け上がってごらんよ。意外にそのあとは、面白いと言えるかもしれないし」
「嫌なんです。そう言われても、ぴんと来ません。弟にも冷たい目で見られてます。だから、私の場所なんか……私の場所なんか……!」
「そんなことない」
「わかりました」
「……怒ってる?」
「怒ってなんかないです。JKになればいいって、今、思いました」
「僕もこれから旅に出るけど、戻る理由ができたよ」
「私と会いに」
「うん。来年も夏服に身を通すならね」
 行き先の知らない町であっても、Nは気にしなかった。教師としての夏が終わる。空は青く、どこまでも澄んでいた。
「ところで先生」
 有希の声は一段と弾んでいる。
「私と対戦したあの子」
「眼鏡の」
「はい。あれ、弟なんです」
 Nの隣、ついさっきまでピンポンをしていた女の子が微笑んでいる。(つづく)