創刊サンデージャーナル 7

 ところ変わって編集部。
 桜並木を見下ろす窓際に、春野とゴンザレスの二人がいる。傍から見れば不倫中の男女のようである。年の差は明らかで、その会話にもいよいよ熱がこもる。麗らかな春の朝だった。
「Nさんはいつでもタイムマシンに乗っていると思います。私たちが知らない国へ、今日にも、明日にも旅に出ようとしているんです」
 切り出した春野には勝算があった。窓際で話すなんて映画のヒロインのようだから。
「有希ちゃんが選ばれた一次オーディション、覚えていますか? あの時、Nさんが優しい目で彼女を見ていたんです。制服の時代と重ねたんでしょうね。有希ちゃんは妹のようであり、いつかの女の子でもあった……その瞳が、優しかった。思わず私も、制服を着た時代に戻ろうとしたんです。もし有希ちゃんが同じクラスだったら、仲良くなれたかわからない。私だって表紙に選ばれた彼女に嫉妬するでしょうね。好きな男の子と仲良くなってほしくないとか、隣の席になってほしくないとか……でも有希ちゃんが笑顔になった瞬間、心から応援したくなったんです。私、もう結婚式、二度とできませんから」
 編集部にNの姿はなかった。ゴンザレスは窓際で春野の声を背にしている。明るい土曜日の朝だった。いよいよ年度末。不登校生が増えそうな朝である。
「いつも思うんだ。もし雨が降っても、花嫁は幸せかな」
「もちろんです。私の場合、神様が晴れの空を用意してくれたんだと思っています。あの日、祖母も駆けつけて、一生の思い出になりました」
「雨が降っても、誓いのキスはできたかい? 両親と、その他大勢の前で」
「……できました、と言いたいです」
「なぜこういうことを聞くかというと、作家は雨の日でも原稿に向かう運命にある。一体、いつ恋人と結ばれるのか、わからないんだ」
「と、言いますと……」
「書いている時、この世界から隔離された気分になっている。ドアが閉まっているんだ。外にいる恋人さえ、入ることができない。たとえ花嫁姿で、泣きべそをかいていてもね。作家は本当に孤独だよ。僕には務まらない」
 ゴンザレスは窓の外を眺めた。ガラスは鳥が接近してもわからないくらい、よく磨かれていた。自分の顔と、外の景色が見えた。制服の少女も、駅までの道を走って、スカートを揺らしている。春だった。
「それでも作家は、少女に手を振るんです。ペンを執った手のひらで」
「では聞こう。Nはドアを開けて部屋の外に出ていた。雨は過ぎたのか、Nにとって」
「そう思います。ただ彼の中で、まだ止んでいないだけです……そう思っています」
「つまり、雨は上がっていない」
「……Nさんの窓が曇っているなら、私も、有希ちゃんも、透明にしてあげたい、と思うはずです。女性ですから」
「母であるから?」
「そうじゃないんです。私たちは、母や姉のようになりたいわけではないんです。男性の孤独について、もっと知りたいと思うだけなんです」
「つまり、支えてあげたいと。三歩下がって応援してみたいかな? あとは毎朝の弁当と夕食を作って良き妻を演じる。第一子をベビーカーに乗せて雑誌に載る。ついでにタワーマンションを見上げて満面の笑み。さあ、あとは夜の回数を増やすのみ」
「そうじゃなくて……」
「事実だろう。バスケ部のマネージャーでも同じだよ。汗をかき、汗で青春を過ごす彼らと一緒になって学生時代を謳歌してる。母や姉のような自分を否定なんかできないはずさ。亭主を影で支え、息を潜めながら年を取る。だから誰かの奥さんって言うんだよ。違うかい?」 
「……そう思います」
「僕の母はジャパニーズだ。君と同じ肌をしている」
 ゴンザレスは眼下の景色を見て言った。撒き散らしたスイカの種のごとく人が歩いている。おまけに蟻の行列より整ってはいない。もれなくキリギリスの足の裏に踏み潰されて、息絶えること必至である。
 夏の風鈴の音色を知っていた。夢うつつの膝枕で、幼き時代の名残として鳴り響いていた。母が耳元で「ふうりん」と教えると、肌の色の違いも不思議と気にならなくなった。風に揺れた小さな鐘は、秋になっても廊下の隅々まで聞こえていた。メキシコ人の父が仕事に出かけた。鏡の中の自分は、あの男とそっくりだ。そう思いながら、学校までの道を歩いた。風鈴の音を忘れて、ただ太陽の下を歩くほかなかった。もうすぐみんなが待っている学校が始まる。夏休みを終えて日焼けした友達の笑顔がいっぱいだ。九月一日の朝、教室で若い女の先生が言った。「後藤君と同じ色だね。これでみんな、同じ肌の色になったね!」ゴンザレスの耳にこびり付いて離れなかった。もうすぐ雨が降る空の色は、すすいだあとの洗濯水とよく似ていた。濁っている。夕立が降った。乾いた土に水ができた。涙が、雨と一緒に輪となって消えていった。水溜りの表面は、月の上のクレーターとそっくりだった。
日本の有名な歌のように、空を見上げて涙を止めるはずだった。
 少年ゴンザレス後藤は鏡をのぞいた。父の薄ら笑いが浮かんでは消えてゆく。黒い髪と白い肌を持つ最愛の母の手が必要だった。
「実は今回のオーディション、N君が主役なんだ。彼には君を騙す計画を持ちかけてる。きっと今頃、有希ちゃんに暴露してるはず。彼は朝型だ。朝の早いうちに話していると思う。自分が騙されてることに気付いていない」
「……どういうことですか」
「説明しよう。創刊号の表紙オーディションを開くと言って、女子高生を選んだ。その間、君は電話応対したよね? 最初は私と一緒に、春野さんを審査する計画だった。つまり、ちゃんとアシスタントとして対応できているかどうか。でも本当は、作家Nが僕の嘘を見破ることができるかを見ていたのさ。その意図は、常に誰かに読ませることを知ってもらいたいから。作品は慎重に仕上げるべきなんだ。僕がこうして女性アシスタントに売ることを見抜いてほしかった。残念ながら、彼は騙されていることに気付いていない。読者に伝えることは難しいと思う。作家としては致命的だよ」
「そうは思いません」
 ゴンザレスは目を丸くした。
「だって、Nさん。私にメールで教えてくれたんですもの。編集長が窓際で真相を暴露すること」
 
 机には雑誌が一冊。
 隣で弟が勉強中にもかかわらず、変な自己アピールを仕出かした前科に加え、今度は自分が載った表紙を見つめて微笑んでいる。胸がでかい。誰の目にも明らかだった。
 さすがに自分の机に足を乗せるようなことはできなかった。この机は小学校入学時、亡くなった祖母が買った大切な机だ。唯でさえ短いスカートで、そんなことはできなかった。
「見本、届きました。ありがとうございます!」
 電話の向こうにNがいた。創刊号の目玉、オーディションで朗読した掌編『放課後の果実』の作者である。
「ママ以外、見せてないんです。なんか急に恥ずかしくなって……ていうかこれ、雑誌名長すぎで笑いました」
「春野ゆき氏作」
「私、二人の子供を産み分けるために、旦那様と裕福な友達を使ったはいいけれど、その感情と甘い判断が、いつまでも尾を引いて、新たなる生命の誕生に後悔したくないと決意した、ある日の夜について」
「パーフェクト」
「ところでNさん。どうして作家になろうとしたんですか? 去年まで学校の先生だったじゃないですか。覚えてます? 登校日に一緒に夕闇を歩いたこと」
「忘れていると思ったかい? まさか」
「私、〈面白くないとはっきり言える、そんな自分を高める場所に行けばいい〉って言葉、ようやく実行できた気がするんです! だって今回の表紙、それの証明ですもん! なんでここまで時間かけなきゃいけないのかって、ずっと思っていたんですよ。オーディションの時はつまらないと感じたけど……報われました!」
 電話を支える手に汗が出ている。こんなことは初めての体験だった。
 二次オーディション当日、じっと見つめる作家の顔が有希の頭から離れていない。隣にいたゴンザレス編集長の目と言ったら。FBIの重要指名手配犯に名を連ねても、何の違和感もないだろう。チリドッグが好きらしい。その日は買えないように手錠を与えるべきだったと、有希は思う。
 有希は表紙を見つめた。きっと天国のおばあちゃんも喜んでくれてる。別に学校で目立ちたいからではなかった。自分から口にするつもりもない。男子が勝手に噂すればいい。
 長く話す癖をやめたかった。聞きたいことがあって、大人の手を止める。年齢を武器にできている証拠だった。どうして。子供の頃から、何度も繰り返した言葉だ。
「どうして、作家になったんですか。私、Nさんの短編読んで、この人って変態だと思ったんです。そのあと、なぜ作家の人は小説を書くのか、知りたくなって……」
「春野さんにも、同じこと聞かれた。でも有名な登山家みたいに、かっこいいこと言えないし」
「そこに紙があるから、ですか」
「ああ、それでいいと思う。マロリーさんだって、プライド賭けて散ったんだ。こうして話している間も、春野さんとゴンザレス氏は僕を応援してくれてる。編集部で噂でもしてると思うよ」
「Nさん、質問」
 うざい。最後にしよう、と有希は思う。
 電話の向こうでNの声が弾んでいた。
「〈為せば成る〉。これで僕のペンネームの由来、言わなくていいよね?」(つづく)