鋼の夜 6
図々しく俺の部屋にインターフォンを鳴らしたのは尾高だった。画面越しに相当な焦りを感じた。殺人犯に追いかけ回されたのか、すぐに開けてほしいと訴えていた。
部屋に入れてやった。このまま玄関で言い訳を聞く暇などなかった。
「……お願いがあるんです。俺もアイスランドに行きたいんですよ。マジ、頼みますよ、お兄さん。ね? いいでしょう。土井さんより役に立ちますよ。わかりますか、え、わからない? 勘弁っすよ。マジで」
昨日と変わらない服だった。早口はスニーカー集めより得意だろう。鬱陶しいクソ野郎だ。とっとと帰れと怒鳴りつけたくなった。
「まず土井について知っているなら話してくれ。安心しろよ、別に盗聴器なんか仕掛けてないからさ」
また昨日と同じ、野郎二人の会話が始まった。時計を見た。九時を回ったばかりで、一応俺たちも仕事開始の時刻だった。
「俺、信じられないっすよ。急に電話が鳴ったんで、駆け付けたんですよ。新羽まで走って……橋にいるから来いと呼ばれて」
「それ、土井の声だったのか」
「……いえ、昨日の、森にいた男性です」
「死体を見た」
泣きそうな目で頷いた。
呼び出されて目撃したのは、敬愛する男。出所したばかりの男だった。
「橋には誰もいなかったわけか」
「ええ。俺が駆け付けた時には、誰も。土井さんの身元を確認させるだけの役目だったみたいです」
「ここに来る前に気付いたことないか? ざわついてたんだ」
「あっちで死体を見たとか、そんな会話聞こえてきました。俺、嫌でここまでダッシュで来ました」
「人身事故あった朝と似ていたな。他人の噂ってガラス越しでも聞こえるもんだぜ。今朝の場合、新羽橋付近で男が目を見開いて浮かんでいたわけだ。ラジオで聞いた」
「待ってください。人が死んでそんな言い方っすか」
「俺の目で確認したわけじゃない。だがここで電話しても無意味だろう。昨日の男が一蹴するだけだ。俺たちが自分で網に掛かる必要なんかねえんだよ」
「……俺、助けてもらってるんですよ。それなのに」
「いいか。お前さんがこの部屋に訪ねた理由を忘れるなよ。大倉山から出たいんだろ? そのために金を工面しに来たんじゃないのか? 言っておくが、俺の勘はよく当たる。目が覚めて妙な予感がした日もあった。駅に誰かが飛び込んだとわかったんだよ。瞼の裏付近でな」
尾高に同情はしなかった。世話になった先輩の死体を見て動揺している。だが俺と一緒に海の向こうへ行こうなんて虫が良すぎる。
「俺も昨日の男の名は知らない。大倉山公園で待ち合わせすること以外、知らされていなかった」
「質問、いいですか。アイスランド行きの航空券、何に変わりますか。お兄さんがそんな遠くまで行く理由、俺まだわからなくて」
「森では把握できないだろうな。簡単にまとめると、俺から頼んだことなんだよ。映像をどこにもバラさない代わりに、片道分の費用をくれと言ったのさ。俺が向こうで調査するからと言った」
知らない相手と交渉するときのルール。「はい」と言わないこと。「いいえ」とはっきり伝えること。
「それに新しい提案をすることが大事だ。長電話を拒否しないと、ちょっとの隙で入り込んでくる。人の面した鼬みたいな連中は腐るほどいる」
「あの人、初めて見ましたけど……たぶん、駒ですよ。獄中から指示受けてる感じがして」
「土井のやつ、相当入り込んでたみたいだ。昨日の様子見れば誰でもそう思うんじゃないか」
「なんで川に捨てられなきゃいけないんですか。土井さんが俺の番号、漏らしたのはきっと死ぬってわかってたからですよ。あの人、何者なんですか。俺本当に腹が立って」
「理屈じゃないことわかったみたいだな。十分にプラスだ」
「プラスって……マイナスにすらなってませんよ。だって、プラスにするにはもう少し情報が必要ですし。俺的にもアイスランド行きでお役に立てるというか。大倉山にいても意味がないっていうか。やはり若い力って大事だと思いません? ね、いいでしょ。旅も必要なアイテムじゃないですか」
「それが理屈だって言ってんだよ。いいか」
棚からパスポートを取り出し、尾高に見せた。
「片道分が入ったら、現地に行く。依頼を断る選択はないんだ。こっちも借りを作ってる以上はな」
尾高は膝を付いた。深呼吸を始めた。
俺の手は自然に胸倉へ伸びていた。まさか、と言いたげに蒼白していた。
「お前の年で土下座なんかする癖は捨てろ。まず死体のことは忘れて、昨日の男と縁を切るんだ。ムショ内でどれだけ影響力があるか知らねえけど、シャバに出たお前が駒になる義理はねえよ。狸だって笑うだろうぜ」
「……すみません。誤解してました。すみません、すみません」
ここから、時計の針が急に早くなったような気がする。港北区にいる以上、手が回る。土井の周囲、俺も尾高もその行動も、ほぼすべてドラキュラみたいな男がつかんでいるはずだ。
依頼を受けた。金髪の女がどうなっているかわからないが、と言った上で引き受けた。
いちいち森の中で確認しなかった。俺がアイスランド行きの交通費を求めると、電話口で男は言った。女と、アジア人の男を一人交換する。その候補を奴らは探していると。
もちろん、信憑性などない。だが素材を見た以上、逃げ場はなかった。もし無視すれば、男の口から「チキン」と伝わるだろう。火山灰を白米に掛けて食べる準備くらいは可能だが。
猫の手も借りる、とはよく言ったもんだ。
「念のため聞く。昨日森で会ったあいつ」
「はい」
「ムショ内にもいなかったわけか」
「もちろんですよ。佐崎さんの指示だとは思いますが」
「待った。もう一度、名前言ってくれ。サザキか」
「佐崎慈朗さんです」
「そのじいさんについて語ってもらおうか」
「俺も直接聞いただけですけど……こんなこと言うと殺されるかもしれませんけど」
「直接聞いた話をしてくれ。こんなことは殺される案件じゃない」
尾高は黙り込んだ。俺に匿ってほしいなら条件を満たす必要がある。何事もタダで動かない。それが俺たちアジア人の掟だ。
「しくじったんだな。大物を敵に回したくないってのが本音かな。哀れ土井の野郎、鵜呑みにしちまった。とんだ介護だ」
「俺、別に佐崎さんを敬遠してたわけじゃないんです。うちの班では従うのが当たり前でした。普段は優しい目をしているんですけど……」
「けど、は捨てろ。模範囚のジジイの目に忖度なんかいらない。要は刑務官だって買収してたんじゃないのか。その割にまだ塀の中だ」
「向こうで捕まった女がいる……とだけ言っていました。ヨーロッパまで行ける人を探しているみたいでした」
「飛んだトレードだ。電話で聞いた通り、俺とパツキン美女の交換。過去に前例はないみたいだな」
「佐崎さん、たぶん誰かに指示受けたんだと思うんです。俺にはそれくらいしか」
「いいぞ。これで心穏やかに火山見物できる」
「……信じてますか。わざわざアイスランドまでっておかしくないですか」
「そこに狙いがある。わざわざ火山地域で待ち合わせる意味を考えろ」
「……降ります。俺、関係ないっすから」
尾高は勝手にコップを取り、水道水を入れ、飲み始めた。
こいつとアイスランドには行かない。行く気もない。
「留守番してくれ。報酬の半分やるから」
しばらく沈黙が続いた。報酬について口にした途端、気が変わったらしい。俺にはもう一つ、日本を発つ前に確認したいことがあった。
「気付いたんだよ。お前も確認してくれ」