創刊サンデージャーナル 3

 ところ変わって倉庫街、駅前は労働者が集う砂の街。各自番号で呼ばれ、定時に列を乱さず現場まで歩いてゆく。いずれも派遣会社からのアルバイトであった。
「これ、洗っといて」と脱ぎたての靴下を投げ飛ばし、夕食後は美少女ゲームに現を抜かす。とどめは「風呂くらい溜めとけ」の決め台詞。そんな夫を持つ梨紗は決意した。なんでもお中元シーズンに合わせた仕事があるらしい。
 ママさんたちにも手を借りたい、とのことで早速ベルトコンベアが忙しなく回っていた。箱という箱を次々と並べてはベルトに乗せる。学生から主婦、学生から主婦、とにかく人の手が休まることはない。そうしないと間に合わないからである。文月とは遙か昔、やはり灼熱こそがこの月にふさわしい。
「手伝いましょうか。大丈夫ですか」
「……大丈夫です」
 本音はこの青年に助けてもらいたかったようである。何しろ重い。定番の〈トマトジュース詰め合わせ〉を何箱並べる必要があるのだろう。きっと親世代、第一次ベビーブームに生まれた中高年のために決まっている。
「もっと綺麗に置いてくれる? そう言われなかった?」
 いつものおばさんである。梨紗とは三十ほど年上、かつての逃亡犯・福田和子似の美人であった。
 こちらの倉庫、丸ごと大手物流会社のものであった。まず派遣会社を通して人を集める。三十代フリーターなんて序の口、あらゆる年齢層で現場は即埋まる。年に一度の稼ぎ時なのである。ああ、親しい人への贈り物。ベルトは回る、回る。トラックに詰め込むまで、しばしの旅路……。
「あのね、俺が運んだんじゃないんです。憶測はやめてください」
 青年が何か言っている。
 机には品物がズラリ。
「これ誰かが並べたんでしょう。何を疑っているんですか」
 簡潔に説明すると、あるパート主婦が梅干しの箱を整列。こうするとベルトまで持っていきやすい。しかし、何者かが別の商品を梅干しに積み重ね、台無しになった模様。
 運悪く通りかかった青年に問い詰めた、という具合。
 おばさん、烈火のごとく怒っている。
「なんで梅干しの上にバリカン乗せるのよ!」
 青年は呆れ、机から離れた。何を隠そうA君である。ついさっき主婦に声をかけ、「大丈夫です」の一言を見事引き出したあの男であった。箱を積み上げる後ろ姿に見兼ねて、きっと有村架純似だろうと話しかけた次第である。
 そんな梨紗は二十七歳、空いた時間に稼ごうと何を思ったのか派遣登録。連日、ボスママの美声を聞くことになった。
 見兼ねた青年が梨紗にまた接近。運悪く梅干しの上に電化製品が一つ。遭えなく疑惑の目に当たったのである。これを冤罪と言わず何と呼ぼう。 
「人を疑うって最低じゃないですか」
 A君の言い分。俺がやったんじゃない。誰かが置いた。
「でもここに置いた人いるでしょ? 誰だって聞いてんの」
 女、聞き耳持たず。心配そうに見つめる梨紗。
「だからあなたの思い込みでしょう。梅干しだけベルトコンベアに持っていけばいいじゃないですか」
「違うのよ。あたしが置いた箱にどうして違う箱があるのかって聞いてんの。違う箱置いちゃ駄目って言われなかった? 何、その態度」
 女の声は不動明王すらも耳を塞ぐほどだった。倉庫内にたちまち緊張の糸が張り詰める。
「大体ね、この子ね、男漁りに来てんじゃないの? ちょっといい顔してるからってさ」
 梨紗は固唾を呑んだ。我慢とは無縁、意を決して問題の箱を開封した。
 まさか。
 A君は目を疑った。  
「剃るぞババア」
 倉庫内に不気味な機械音が響きわたっている。哀れボスママ、身を震わせその場で失禁した。

「あの、これよかったら」
 夕陽傾く帰り時間、ただ一人声をかけた者がいた。
 A君、荒野の途中でまさかこんな美人に再会するとは思ってもいない。ついさっきバリカンで刑を執行、もう明日からパートとは呼ばせない、正義の主婦梨紗であった。
 手にはコカ・コーラが一本。
「いいの? 俺なんかで」
 駅までは遠い道のりだった。トレンチコートを羽織るにはまだ早い。とりあえずコカ・コーラで我慢する。
「私、いつか手紙書きますね」
「駄目だ」
「どうして」
「君は今の旦那と一緒に住むんだ。俺とは駄目だ。一生後悔すると思う」
「……あなたは?」
「梨紗。俺たちにはパリがある」
「……!」
「こんな俺にだって夢があるんだ。本当は君のような女性をキャメラに収め、一緒に赤い絨毯の上を歩きたい。もし俺が映画監督になれたら、君を主演に撮るつもり。『若奥様、濡れて御免』ってタイトルがいいかな。来世よりも素晴らしい人生のためにね」
 梨紗はうつむき加減で大粒の涙をこぼした。そばかすと日焼けに程遠い、どこまでも白い肌の上で。いつかのパリで出会った恋人のように。ああ、往年のイングリット・バーグマンそっくりである。
 そこへ差し伸べる青年の手。
「……乾杯」
 A君はコカ・コーラを飲み干した。
 そして駅のゴミ箱に空き缶を捨てた。

 消費者金融のドアについて知っている人は少ないだろう。A君、日払い分を引き出そうと派遣会社のカードを使用、つまりATMと提携していたのである。音を立てて野口先生揃うも、やはり日当には寂しい金額。アルバイトなら致し方無い。 
 ふと視線の先、ドアに貼った紙に文字がある。どう見てもおっさんの字ではない。
〈よかったら、ご意見ご感想くださいね。あ、そうだ。借りすぎちゃダメ。だって……返せなくなるでしょ。それさえ守ってくれるなら、い・つ・で・も入店してよね。それじゃ、またのご利用、お待ちしております☆〉
 どうやらコナン・ドイルも見たという天使かもしれない。灼熱の倉庫街から電車を乗り継ぎ、たどり着いた空間に、まさかこんな可憐な文字があるとは。
 かくして現金を手にしたA君、帰省の目途が立ったようである。
 正確には片道航空券を買う金額に達したのだった。羽田空港第一ターミナルは帰省客で混んでいた。早々と搭乗口に向かったA君、バイト代でプレミアムモルツとカツサンドを購入、これ以上ない組み合わせに舌鼓を打ちつつ、窓外の小松行き便を眺めていた。倉庫内事件については忘れようと缶に口を付ける。学校は夏季休暇、蒸し風呂のようなアパートで過ごすだけなんて避けたかった。
 思えば親元を離れて初めての帰省である。緑の稲穂が風に揺れていた。あと少しでこの一帯も全て刈り入れ時だった。〈猫の目が変わるよう〉とは本当のこと、農村は瞬く間に景色を変えていた。実家に着いた途端、待ってましたと三毛猫がすり寄ってきた。
 A君はそっと頭をなでた。まるで遊女のように蠱惑的な声を漏らした。ざらついた舌で足の指を舐めたのもこの子である。一体、猫の舌ほど不可思議な場所はない。飼い主が思わず見下ろしたその瞳に、「カリカリくれ」と文字が光っている。 
 空は橙に満ち満ちていた。雲にたっぷりの果汁を含ませ、思い切り絞ったみたい。そのせいで夕闇がこんなにも長く感じるようである。ここは生まれた地、何もないと感じて捨てた村。西の空はいずれ闇に落ちるだろう、と見つめたその瞬間、マッチ棒程度の何かが凄まじい速度で雲を裂いた。
 あ。
 と叫ぶ間もなく彼方へ消えてしまった。
 それは隣国からのミサイルであると知った。三毛猫の目を覗き込んでみる。夕陽を映した大きな瞳、今度は〈火の用心〉と書いた札が揺れている。(つづく)