【生い立ち】100記事超えたので今更生い立ちについて紹介します~幼稚園から小学生編~
皆さんお疲れ様です。
中村です。
先日100記事まで書きましたが、最初の簡単な自己紹介以来、自分自身のことをあまり皆さんにお伝えしていなかったので、今回は時系列に沿ってシリーズ化して紹介します。
1.幼稚園編
私には2つ年上の兄がいるので、兄が通っていた幼稚園にそのまま入園しました。
今思うと両親も兄より私の方が手のかかる子どもだったと思います。
まず、9時までが入園時間だったのでいつも母に送り迎えをしてもらっていました。
なんと、当時の幼稚園児中村は朝に見たいテレビに夢中になり中々出発の準備をしない子でした。
母の会社への出勤時間が9時だったので毎回、ギリギリになったり時には目立ちたがりな私は、母に玄関まで見届けてほしいとお願いするほど承認欲求が強かったです。
今思うと相当怒らせていたなと。
今思えば、自分が誰と仲良くしているかを見せたかったのかもしれません。
仲が良い4人の友達と毎回外に出て遊具で遊んだり、鬼ごっこしたりと外で遊んでばかりのやんちゃな幼稚園児でした。
親が仕事で迎えに来るのが遅い人は帰りのバスで帰らず、時間外教室という放課後のような時間も外で遊んでいました。
帰りは父親か母親のどちらかが迎えに来てくれていましたが、ギリギリまで何かして遊んでいないと落ち着かなかったです。
やんちゃでしたが、やはり男の子は照れ屋な人が多いと思います。
僕自身も若い先生に何か褒められるとすぐに鼻の下を伸ばしてしまう分かりやすい一面もありました。
今だからこそ言えますが、当時は恥ずかしかったです(笑)
家では近所に歳が近かったり、一回り程離れているお兄ちゃんやお姉ちゃん達にたくさん遊んでもらいました。
中でも、幼馴染の1個上の先輩が兄弟揃って野球をしていた影響もあり、近くの畑で野球をするほどです。
何回、畑のおじさんに怒られたことか。
畑の傍にある農道(田舎なのでほとんど車も人もいない)でキャッチボールやバッティングをして、畑に飛んで行ったボールをジャンケンで負けた人が取りに行く。
なぜかジャンケンが弱かった私が毎回取りに行っていました。
スリルを味わっていたのが懐かしいですね。
冬になれば、青森ならではのかまくら創りをしたり、天気が悪い日には家でスーパーファミコンやゲームボーイでポケモンをしたりして遊んでいました。
そしていよいよ、卒園を迎え小学生に。
2.小学生編
小学校に入学していきなり転機が訪れます。
始めは、幼馴染と投稿していましたが、祖父が倒れたことをきっかけに祖母の面倒も見るべく家族で同じ学区内で引っ越しをしました。
今までは周りに一緒に遊んでくれるお兄ちゃんやお姉ちゃん、幼馴染がいましたが、一緒に登校する人は兄しかいないという状況。
学校はそのままでしたが、いきなりの変化で戸惑いもありました。
そこで、引っ越した後の最初の登校日。
みんなで帰る方向が同じ人に分かれて集団で帰ることに。
すると、クラスメートの1人がやけに家の近くまで同じ方向だなと思っていた矢先、「俺ここの家だよ」と。
なんと、隣の家だったのです。
そこから放課後一緒に遊ぶ友達もできて、学校の登下校も一緒にいきました。
小学校3年生で野球部に入るまでその関係が続きました。
出会いの引き寄せが良かったですね。
そして、人生のターニングポイントである「野球部」に小学校3年生の4月に入部しました。
3.野球部に入部
兄と幼馴染が先に野球部に入部していたので自分も後を追うようにして入部。
当時、ポジションはショートを守りたかったので内野手用のグローブを買っていました。
小学校の野球部あるあるかもしれませんが、最初は新入部員全員は端っこでキャッチボールから始めるのが当たり前でした。
生まれた時から恵まれた体格だった私は当時から身長も大きく、肩ものちに強肩と言われるほどの存在でした。
将来大型ショートになるかと思っていた矢先。
目立ちたがりの私は何とかアピールできないかと。
キャッチボールで遠投を見せれば監督に目をつけてもらえるのではないかと思い、ひたすら鉄砲肩を見せました。
すると、当時のK監督に「君、ちょっとノック入りなよ」と。
これはショート守れるとウキウキでショート方面に走って向かうと。
「君はキャッチャーだから、こっちに来なさい」
ここから私のキャッチャー人生がスタートします。
当時のK監督も視野が広く、肩の強いキャッチャーがいるチームを創りたいと思っていたらしく、ちょうど私が当てはまったとのことです。
キャッチャーになったことで試合でも頭角を現します。
一個上の幼馴染とはバッテリーを組んでおり、一個上の代と自分がキャプテンをした代に県大会で優勝しました。
当時を思い出すと、土日は大会か練習試合2試合ずつ。
平日は小学校に照明ができたこともあり、放課後は19時過ぎまで練習をしていました。
小学校野球は変化球禁止なので監督の方針いわく「打てたもん勝ち」ということで練習の8割はバッティング練習でした。
今思うと県内でもトップクラスの攻撃力があったチームでした。
伸び伸びやる野球、訳して「伸び伸び野球」
とにかく、身体能力と打撃で結果が出ていた小学校野球。
これが中学校になると劇的な変化がありました。
この続きは次の記事で紹介します。
4.学校生活
小学校時代は本当にお調子者でした。
今だから言えますが、友達とエアガンが流行っていたのでお年玉を使ってエアガンとBB弾、ゴーグルを購入しては林の中でサバゲーのように撃ち合っていました。
慣れてきたころ、思い切って学校も部活も休みの日には学校の校庭で友達とチーム分けをしてエアガンで撃ち合っていたりもしました。
当時は頭が回らなかったのか、校庭のあらゆるところで落ちているBB弾が後日先生に見つかり、全校集会が開くことに。
8人くらいでやっていたので、僕は自分たち以外にもやっている人がいるだろうと思い、最初は黙秘を続けていました。
ところが、翌日先生に呼び出されると一緒にいた8人全員が呼ばれていました。
ついに僕たちがやったことが先生に伝わったのです。
今となってはネタになりますが、当時のことを想うと馬鹿ばっかりでしたね。
とは言いつつ、学年委員会に所属して全校生徒の前でスピーチをしていました。
そんな中村少年ですが、中学校に上がると180度人格も変わり、劇的な変化が起きたので続きは次の記事でお伝えします。
みなさんは幼少期時代はどんな過ごし方をしていましたか?
以上、中村のブログでした。
中村尚渡
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