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楽翁公伝 001 自序 渋沢栄一著

ここに私の名で『楽翁公伝』を刊行するにあたり、その経緯を少し述べ、著者としての責任を明確にしておきたいと思います。

以前、私は旧主である徳川慶喜公の伝記を編纂・刊行しました。それは、慶喜公の忠誠心が世に十分に知られていない点を明らかにし、恩義に対してわずかでも報いたいという思いからでした。また、明治維新前後の歴史的事実が誤って伝えられていることが多いため、それを正す一助とする目的もありました。しかし、この『楽翁公伝』は、それとは全く異なる事情のもとで編纂されたものです。私が深く楽翁公の徳行を尊敬し、現在の社会情勢が、楽翁公のような公明で忠義に満ちた政治家を強く必要としていると感じたからです。

私がようやく楽翁公(松平定信公)を深く尊敬するようになったのは、明治6年に官職を辞して第一国立銀行の経営に携わり始めた頃のことです。その間もなく、当時の東京府知事であった大久保一翁氏から、江戸幕府時代から積み立てられていた共有金、別名「七分金」の取締役の一人に任命されたのがきっかけでした。

大久保氏は幕府の重臣の一人で、徳川家が静岡藩に封じられた際には、慶喜公の将来を憂い、その家政の整理に尽力しました。また、私がフランスから帰国して静岡で商法会社を設立した際にも、大いに庇護してくださった方です。私が共有金の取締役を任されたのも、そうした関係からでしょう。その結果、私は現在に至るまで、東京市養育院の運営に関わり続けることになりました。

明治初期には、袋を首にかけた物乞いが市内をうろつき、毎月1日や15日などには店先で物を乞う人々が多数いて、とても見苦しいものでした。文明国の都市として、そうした浮浪者を放置することはできないということで、彼らを一箇所に収容することが決まりました。こうして初めて社会的な福祉施設の設立に取り組むこととなり、これが東京市養育院の起源となったのです。

しかし、そのためにはかなりの費用が必要でした。当時は維新の混乱期でもあり、東京府にはその費用を賄う余裕がありませんでした。そこで、大久保知事は共有金取締役たちと協議し、その資金を養育院の運営費用に充てることに決めたのです。

このように、共有金は養育院の運営費用に使われただけでなく、その前後において東京の道路や橋、墓地、ガス施設などさまざまな公共事業にも用いられ、大きな効果を上げました。私はこの共有金とは一体どのような性質の資金であるのかを考え、その後、養育院の幹事である安達憲忠氏にその由来を調査してもらいました。その結果、この共有金こそ、天明・寛政年間に幕府の老中を務めた松平越中守定信、すなわち楽翁公の善政の恩恵であることが明らかになったのです。

楽翁公は老中に就任するやいなや、自ら模範を示して節約を実践し、幕府の財政を整理・緊縮しました。同時に、江戸の市民に対しても節約を奨励するための命令を発布し、奢侈(贅沢)の風が田沼時代から急速に一掃されました。そして、公は江戸の各町に町費の節約を促し、その節約で生じた金額のうち2割を地主の収入とし、1割を予備費として積み立て、もしその予備費が使われなければ家主の収入としました。残りの7割は、江戸町民の緊急の必要に備えるための積立金として貯蓄されたのです。この積立金が明治時代まで残っていたというわけです。

その総額は、地所や現金を合わせておよそ140万円余りであったと思われます。

天明7年、楽翁公(松平定信公)が決意をもって老中首座に就任し、信頼する有能な人々とともに幕府の中枢に立ち、将軍家斉公を補佐して政治に携わることになったのは、一橋治済卿や水戸治保卿らが、老中田沼意次の傲慢で専横な政治姿勢を見かね、このままでは政治と風俗の乱れが収拾できなくなると憂いたためでした。そのため、当時すでに賢明さで名高かった楽翁公を推薦し、混乱した時局を救おうとしたのです。

公が老中の職にあったのは、30歳から36歳までのわずか6年余りに過ぎませんでしたが、その間に推薦者たちの期待に応え、見事に政務を行い、自らの抱負を実現して、いわゆる「寛政の治績」を成し遂げました。すなわち、幕府の財政を立て直し、奢侈(贅沢)の風俗を正し、文武の奨励を行い、困窮する民を救済し、浮浪者に仕事を与えるなど、その政治上の功績はまさに驚嘆すべきものでした。

楽翁公(松平定信)のことは、少年の頃に頼山陽の『日本外史』を読んだときなどにその名を耳にしたことはありましたが、その人物について深く理解するには至っていませんでした。しかし、安達氏の調査によって、東京市養育院が設立されたのも、この「七分金」が残されていたからこそであり、これは楽翁公が行った善政の一つであることが明らかになりました。それを知るにつれ、さらに公の施政の足跡についても知ることができ、大いに公に対する敬慕の気持ちを深めることになったのです。

その一方で、老中に就任した翌年の春、楽翁公が密かに霊巖島吉祥院の歓喜天に捧げた願文が発見され、私にそれを見せてくれた人がいました。その願文には、天明8年1月2日に松平越中守が、次のように記していました。「米穀の融通がうまくいき、価格が高騰せず、庶民が苦しむことのないように安定と平穏が保たれますように。また、金穀の融通がうまくいき、幕府の威信と慈愛が庶民にまで行き届きますように。越中守の一命はもちろんのこと、妻子の命までもかけて、必死に願います。この願いが叶わず、庶民が困窮し、幕府の威信と徳が行き届かず、人々が混乱することになったならば、いま私が死ぬことを願います」と記されていました。

この願文を読んで、執政として自らの身を賭して天下の安危に責任を持とうとする楽翁公の覚悟は、さすがに常人とは異なると感じました。しかし、自己の命だけでなく、妻子の命までも犠牲にしようとする点については、少し迷信的なところがあるのではないかとも疑ったのです。

その後、私はかねてより念願していた徳川慶喜公伝の編纂に着手しました。その編纂にあたっていたメンバーの一人に、旧桑名松平家の藩士であった江間政発という人物がいました。彼は藩の関係から楽翁公(松平定信)について深い知識を持っており、私が楽翁公を敬愛しているのを知っていたため、機会があるごとに公の事績を話してくれました。そのため、私の楽翁公への理解も次第に深まっていきました。

特に、江間氏が自ら書写し整理した「撥雲録」という書物は、もともと松平家で楽翁公自ら厳封して保管していた文書が、年月を経て明治27年に自然に開封されて発見されたものでした。その文書は、公が執政していた頃の一大事件として歴史に名高い「尊号事件」に関する記録でした。尊号事件については、これまで世間で楽翁公が幕府の権威をもって朝廷を圧迫したかのように言われていましたが、実際にはその正反対で、公は大義名分のため、そして皇室のために毅然と諫言したことが、この文書から明らかになりました。
また、同じく秘蔵の文書の中に「宇下の人言」という書物がありました。「宇下の人言」とは「定信」という二字を分解したもので、公がその経歴の大要を自ら記したいわゆる自叙伝です。その中には、七歳の頃から読書に励み、十一二歳で和歌や漢詩を詠み、「自教鑑」を著して自ら戒めたことをはじめ、老中として天下の政治を担った前後のことまで、その時々の心情が率直に記されていました。

それを読んで、私は楽翁公が少年の頃から和漢の学問を広く修め、識見が高く、志操が確固としているばかりでなく、修身や家政の心得は言うまでもなく、国家の治め方や天下の平和のための道に深く心を注いだことを知りました。さらに、公は豊かな趣味と人間味を持ち、そして何よりも尊王の志が極めて厚く、まさに古今に比類のない人物であったことを知り、その崇高な人格に深く敬服するようになったのです。

要するに、楽翁公は生まれつきの英雄であるうえに、たゆまず学び続けた努力によって、あのような偉大な人格を形成したのです。

楽翁公(松平定信)は老中を退任した後も、溜間詰(たまりのまづめ)という役職に任じられ、幕府の政務の諮問に備えていました。しかし、幕政にはほとんど関与せず、もっぱら藩政に尽力していました。また、その傍らで文学や芸術に親しみ、兵学や有職故実、本草学(薬学・植物学)などにも深い研究を積み、多くの有益な著作を残しました。

将軍家斉が公の退任後間もなく、再び田沼意次の一派であった水野出羽守忠友を登用し、贅沢にふけり政治をおろそかにしたため、誇り高い公にとってはさぞかし苦々しい思いをされたことでしょう。しかし、公は「憂国の心があるべきで、憂国の言葉があるべきではない。言葉にするのは心の深さに欠ける」と花月草紙に自ら記したように、己を律して一切の贅沢を避け、政治を批判するようなこともなく、超然と天命を楽しんで生涯を全うされました。七十二歳でその生涯を終えたその姿は、まさに古の聖賢に劣らぬものと言えるでしょう。

あの孔子の弟子、顔淵が「仰ぎ見るほど高く、掘り下げるほど堅固である」と孔子を評した言葉は、楽翁公を讃えるためにこそふさわしいと思われます。

私は、東京市養育院が楽翁公の恩恵によって成り立ったことに感銘を受け、明治43年(1910年)以来、毎年5月13日の公の命日に養育院で記念会を開催し、祭典を行い、また学者を招いて講演会を開くなどしてきました。このように徳の高い楽翁公でありながら、詳しい伝記がまだ世に出ていないことを深く遺憾に思い、正確な伝記を編纂したいと考えました。

数年前、これを公のご子孫である松平子爵に相談し、了承を得ました。その後、楽翁公の研究者である三上参次博士と懇談したところ、博士も公を尊敬しており、すでに大学卒業の翌年に「楽翁公と徳川時代」という著作を発表して以来、さらに詳細な公の伝記を執筆しようと、常に資料を集めてその原稿も準備していたとのことでした。しかし、博士は当時臨時帝室編修官長として、明治天皇の記録編纂に専念しており、他の仕事に手が回らない状況でした。また、記録編纂が終了するまでは自分の著書を公にすることを望まなかったため、これまで集めた資料と原稿を提供してくれるとのことで、他の適任の学者に編纂を依頼することになりました。

協議の結果、平泉澄博士に編纂を委託し、一通りの草稿が完成しました。しかし、平泉博士が急遽ヨーロッパに留学することになったため、その後の修訂はすべて中村孝也博士に委ねることになりました。中村博士が修訂し、さらに三上博士が校閲を行い、私も繰り返し熟読して意見を述べました。また、公の事績に詳しい松平子爵家の松平稲吉氏にも精読をお願いし、その緻密な助言を受けて訂正を重ね、ようやく本書を完成することができました。

このようにして、三上博士の資料と第一稿をもとに平泉博士が編纂し、中村博士が修訂したものであるため、著者を一人に定めることが難しく、やむを得ず私の著作として公にすることにしました。しかし、これはかつて私が「徳川慶喜公伝」を執筆したのとは全く異なる事情であり、また私がいかに楽翁公を尊敬し、その事績を知っているとはいえ、歴史家でも文学者でもないことから、ここにその経緯を述べる次第です。

本書の原稿は、私が会長を務める財団法人楽翁公遺徳顕彰会に譲り、同会の事業の一環として出版し、まず最初に公の霊前に捧げるつもりです。私は92歳の今日、ようやく長年の念願を果たしたことを特に喜ばしく思っています。

現在、一般社会の状態を見てみると、人々の心が次第に弛緩し、浮かれた風潮や享楽的な生活に流れていることがわかります。そして、政治界や経済界においても、自分の利益を追求するあまり、公共の利益が犠牲にされることが非常に多く、心ある人々が眉をひそめるのも無理はありません。このような状況の中で、もし一人でもこの書を読んで、公が一家の命を犠牲にして、見事に国家の危機を救った至忠至誠の偉大な人格に感動する人がいるならば、それは私の喜びにとどまらないでしょう。

子爵澁澤榮一



この序文は、今から七年前、昭和6年の7月から8月の頃に、祖父の榮一が中村博士から送られてくる修訂稿を譲り受け、家族に口授して筆記させたものです。この文中にもあるように、祖父はこの書を早く世に公開できることを心から喜び、稿本を何度も読み返し、もう少し深く調べたい、ここをもっと力強く書きたいなどと中村博士に注文していました。また、時間があれば自ら筆を執り、修正を加えることもしていました。祖父が楽翁公に傾倒していたことは、想像以上のもので、この公を後世に伝えるには、その徳にふさわしい優雅な文字で表現しなければならないと常に言っていました。そのため、表現についてはさらなる推敲を加えたいという希望があったようです。しかし、そのうちに不治の病にかかり、まだ脱稿に至らず、同年11月11日に帰らぬ人となったのは、非常に残念だったと思われます。この書は未定稿の質ではありますが、文章の内容はともかく、祖父が公について言いたかったことは十分に伝わっていると思われます。また、すでに松平子爵の序もいただいていますので、このまま公表するのは忍びなく、今回三上・平泉・中村の三博士とも相談の上、さらに校訂を加え、祖父の遺志に従って稿本を楽翁公遺徳彰会に贈り、その会において刊行されることになりました。

昭和12年11月 子爵 澁澤敬三


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