【書籍】民主主義とは何か④ 第二章 ヨーロッパへの「継承」_2
フランスの近代化
フランスにおいても宗教内乱を克服したブルボン王朝の下で、中央集権国家の形成が進む。常備軍と官僚制を備えた強力な国家ができ、同時代のヨーロッパを代表する君主となったのがルイ14世。中央集権化によって貴族たちは土地との結びつきが弱くなる。行政の実務は、王が派遣した官僚たちが担ったためだ。その結果、貴族たちは実力者としての役割を失うにもかかわらず、特権だけは享受し続けることで、平民から憎悪を買った。英国と異なり、貴族と地主、中産階級と農民が連携しなかったのはこのためだ。こうして、国家に抵抗する社会側の分断が進み、政府に対して説明責任を課すことができなかった。これがますます進むことで、フランス政治は不安定になる。政府は有力なエリート層を十分に支配できず、むしろ弱い人々に重税を課すことで、その後のフランス革命の勃発を招いた。
アメリカは「民主主義の国」か
1776年、英国の統治下にあった北米の13の植民地が独立を宣言。7月4日には独立宣言が採択される。「すべての人間は生まれながらにして平等である」と説き、「生命、自由、幸福の追求」を人間の不可侵の権利と謳った前文が有名。ジョン・ロックの思想的影響が強く見られるこの宣言は、日本国憲法を含め、世界の多くの国々の憲法に影響を与えた。
しかし、アメリカ合衆国といえでも、最初から「民主主義の国」であったとは言い切れない。例えば、1787年の合衆国憲法には、悪名高い「五分の三条項」がある。下院議員の定数の算定にあたっては、黒人奴隷は一人の人間ではなく、五分の三人として数えられていた。この条項が廃止されたのは南北戦争の後である。
フランス革命の勃発
1789年7月14日、パリのバスティーユ監獄が襲撃され、フランス革命が始まる。イングランドの場合、強力になりつつあった国家と、これに「足枷」をつけようとする社会との均衡を実現する装置として、身分制議会が機能していた。一方フランスでは、ブルボン王朝下で中央集権国家が成長したが、三部会が開かれることはなかった。1789年、財政赤字に苦しむ王権が、170年ぶりに三部会を召集したことが、危機を加速させた。なぜなら、第三身分、すなわち平民の代表は、進まない議論に不満を募らせ、ついには自分たちこそ「国民議会」であると宣言した。当時のパンフレット「第三身分とは何か」が、「第三身分とは何か、すべてである」という有名な言葉で始まっていることが、象徴的であった。貴族たちが、生まれを理由に特権を主張し続けるならば、排除してしまえばいい。国民とは平等な個人から構成されるものであり、特定の人間にしか認められないような特権を要求するものは、もはや国民ではない。貴族が優位性を主張することは、平等な個人から成る国民からの逸脱者である、とする切り返しであった。
フランス革命の初期には、自由主義的な貴族も改革に加わって、立憲主義的な王政を目指してきたが、次第に行きづまる。外国からの干渉もあり、革命が急速に進み、最終的には国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットを処刑し、王政を廃止したのは、想定外の事態であった。国王をギロチンにかけたことで、新生の共和国は体制の基礎づけを独自に求める必要があった。こうして革命は、自らの正当化を抽象的な原理に依存せざるを得なくなった。
(続く)
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