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【日記】普通であることを考える

特別になりたい人が多いのはインスタグラムを見ているとよく分かります。
音楽を添付してドラマチックにしたり、画像編集したり、自撮りをアピールしたりと「わたし凄いでしょう!」と自己承認欲求の集まりです。

以前、特別な存在にならなくてもいいのでは?という記事を書きました。

今回は、ある講座でダルク(DARC;Drug Addiction Rehabilitation Ceanter)の方々の話を聞いて、「普通」ということについて考えてみたいと思いました。

薬物によって朝起きて、何を食べるかとか何を着るとかそういう事ができなくなっていったと。
薬物を断つことで、そういった自分で何かを選択するという自由を得た感じがすると仰っていました。

そうか、そういう日常の当たり前のような選択ができることも自由なんだと気付かされるコメントでした。
僕たちは、当たり前に慣れることで、その価値が見えなくなっているのだと。

依存症も病気です。
そういう不自由さに陥るからこそ、日常の何気ない選択や行動が輝いて見えるのだと思います。
失って初めて気づく、依存症もそういう感じなんだと思いました。

断薬のことを「クリーン」と表現されていましたが、クリーンでいることが新しくて面白いと仰る方もいました。
何年も何十年も薬のある人生を送ってきた方にとって、クリーンな生活は真新しい感覚なのです。

この時点でも戦争のある国では、当たり前がない日常の中で生きている人がいます。
もちろん日本でも、貧困や薬物、または病気と戦っている人もいます。
日常は当たり前じゃないのです。

特別な存在にならなくても、僕たちは十分幸せなはずです。
満たされていることに気づかずに、満たされていないことばかりにフォーカスを当てて苦しむ、、、。

普通でいることは素晴らしいことだと思えると、毎日目が覚めて、普通に朝ごはんが食べれて着替えれてする事がありそしてそれも自分で選択できるということに感謝が目覚めるような気がします。

特別になりたいというのは裏を返せば普通でありたくないということですが、普通じゃないということはリスクでもあります。
精神科病院には、普通からかけ離れてしまい、社会という普通の世界に居られなくなった方が治療のために入院しています。
普通であるから共感できるのです。
普通というのも、実は能力であり、普通というある特定の基準を満たしているとも言えます。

バカと天才は紙一重というのはそういう意味でしょう。

普通は一定の基準なのでしょう。
そして普通と言っても全く同じという人はいません。
家族でも違う感性を持っていますし、似ていたとしても違う骨格を持っています。

同じではないけど、同じルールを共有できる。
つまり個性がありながら普通という共通のルールを守れる人たちが社会です。
ですから、個性は十分あります。
全く同じ声の人はいませんし、同じ表情もありません。

僕たちは別に努力しなくても特別な個性を持った、特別な存在ですし、同時に普通という社会の中での共通ルールを守った中で、自由を謳歌しているのです。
凄いことじゃないですか。
十分じゃないですか。
足るを知る。
十分に満たされていることを思い出せれば、今瞬間に幸せに慣れるのだろうと思いました。

よろしければサポートをお願いします。私自身ではまだまだ微力です。当たり前の選択や情報を得ることができていない方々に、予防医学の視点で、知らなかったことで損した方を少しでも減らすよう、有益な情報を発信していきます。皆様の応援を励みに、より精進して行きます。応援ありがとうございます。