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深川ベーゴマ対戦記①(ベーゴマ考51)

先日、「ちっちのち」の語源の話を調査していて、東京側から資料提供いただいた。
レジェンド松下名人が、ご自身の経験を文にまとめておられたのだ。

資料を拝見し、鳥肌が立った。
私は「チッチノチ」を
じゃんけんの掛け声からの派生だと予測していたが
戦争時の時代背景が掛け声の成り立ちに関与していた。

文面からはなかなか読み取れない背景
もっと詳細を聞きたいことがたくさんあり
本人とつないでいただき、
早速お電話で聞き取りさせていただいた。
これは関東のベーゴマの黎明期の記述である。

松下茂夫名人はベーゴマ歴は約80年。東京深川に生まれ育ち,幼少の頃から昭和の遊びの数々に熱中した.全国ベーゴマ選手権大会優勝(2008年,2015年).現在は,ベーゴマだけでなく,凧や竹とんぼ,ゴム鉄砲,けん玉などを子供たちに教える,「昔遊びの伝道師」として都内や関東各地を歩いている.

東京深川(葛飾北斎)

松下さんの家系のルーツは新潟で、先祖代々船の船頭であったそうだ
お爺さんの代(江戸末期)には人情の町東京深川にでてきており
廻船問屋として、江戸から明治頃までかなりの収益を得た。
屋号は「越後屋」のちに「松下回漕店」となる。
最盛期には隅田川の近隣に停泊している船は
すべて松下のものといわれるほど、羽振りがよかったそうだ。
同じ「越後屋」が屋号の三越や、土佐岩崎家の三菱、
みかんを江戸にもってきて儲けた紀伊国屋
様々な有名どころが松下さんの話にいっぱい出てきた。

お父様は明治25年生まれで、
松下さんは、その7人兄弟の4番目として 昭和13年に生まれる。
上のお兄さんたちは、年が結構離れていた。
3歳になったころ、
ゴンゴン独楽と呼ばれる直径20センチくらいの、側面に穴が開いている鳴り独楽を
もらって遊んでいたところ
お父さんから「そんなに独楽まわすのうまいんだから」と
ベーゴマを教えられたそうだ。

松下さんの思い出だけでなく
そのお父様(明治28年生まれ)のベーゴマの思い出も出てくるため
東京の黎明期としての記述としては大変貴重なものである。

ご実家の家業が廻船問屋ということは
江戸時代に、さまざまな文化が江戸に入ってきた入り口とも言える。
この当時の東京は、
ベーゴマより、鉄輪の独楽が流行していたため、
深川のお父さんの時代の思い出は
ベーゴマが上方から江戸に入ってきた初期の話だと思われる。

私がベーゴマについて調べているのは
もちろん好きでやっていることもあるが
今の段階で、さまざまな人の記憶や記録をまとめ
しっかり記録として残さないと、
子どもの遊び、
特に製造側の話や地域の独自ルールなどは消えて忘れられていくためだ。

ここに松下さんの許可を得て、その思いと伝統を未来につなぐお手伝いをしたい。

松下さんの懐古録本文

ベーゴマの思い出

松下茂夫

終戦直後の東京は見渡す限り焼け野原で遊び道具などなく、 焼け後から自転車
の焼け錆びたリームだけの車輪を拾ってきては棒で引っかて 「輪っぱ回し」で
駆けずり回ったり、 「相撲」 をとたり、 「軍艦遊戯」 で遊んでいました。
昭和22年頃になると駄菓子屋で、 いち早くベーゴマが売り出され大ブームにな
り床(トコ) 一つに50人位で、 本気(ホンキ) 「負けると取られる」 で勝負して
ました。 ベーゴマで遊ぶのが、 楽しくて、楽しくて陽の暮れる迄夢中になって
遊んでいました。
私の生まれた所は東京の深川で、 小さい頃は大通り以外舗装した道路は無く、
どこでも泥道でしたので水道工事とかガス工事あると直ぐに道を堀起こすので
沢山バイ貝が出てきてバイ貝をけずって泥をつめてみんなで遊んだりした。
親父も明治時代の終わりから大正時代の初めにはバイ貝に土とか粘土を詰めて
回して遊んでいたそうです。 親父の話では鉄のコマになったのは、 大正時代の
終わり頃からで昭和18年頃まで盛んにベーゴマで遊ばれていました。、その頃
には、畳表を舟形にしてその上で回し戦うようになったそうで、私も終戦までは、
畳の床でした。 戦後になって前掛けの布だのゴムびきカッパだの帆布などで床
にしてやるようになった。 昭和の18年頃から空襲警報発令の回数が頻繁になり
戦争が激しくなってきました。 戦争に使う鉄は献納とゆうことになり鉄である
ベーゴマは無くなってしまいました。
それでも、私達子供は親に内緒で瓶だの缶に入れて土の中に埋めて隠し持って
いましたが、見つかると取り上げられ 「警察に連れて行かれるよ」 と親からも
脅され酷く怒られ、 それでも、 時を見計らっては掘り起こし、 親に内緒でみ
んなで集まっては路地裏でベーゴマをしてました。 その時の掛け声が、 「声を小
さく小さく」してやるように「チッチノ、チ」 でやってました。 私が親父から
教えてもらった掛け声は、「ベーゴマを一緒にしましょう」 とゆうことで、「イ
ッション セッ」 昭和18年頃に流行った「イッション、ベッ」 は 「一緒にベー
ゴマをしましょう」 とゆうことで、 かけ声の響きが面白いので兄達が使ってい
ました。 その後、陶土で焼いた 「セトベー」 とか 「ガラスベー」 に代わり 鉄
のベーゴマは駄菓子屋には無くなってしまいました。
亀戸香取神社では 「セーノ、 ミトケ」 は、 とても面白いかけ声だと思います。
全国大会では「チッチノ、チ」 ですが、 「チッチノ、チ」のかけ声は、
私には悲しい時代の思い出で、 楽しい思い出がなく 「チッチノ、チ」は、今だ
に馴染めません。
戦後は、ほとんどの所で「イッション ベッ」 でやっていました。
今の時代子供たちが夢中になって遊ぶ事が無いように思われ、 ベーゴマで夢中
になれる楽しさを経験させてやりたいものです。
子供の頃に何でも夢中になれる事は大切です。 これからもベーゴマを可愛がっ
てください。

貝殻を拾って加工した!!?

「私の生まれた所は東京の深川で、 小さい頃は大通り以外舗装した道路は無く、
どこでも泥道でしたので水道工事とかガス工事あると直ぐに道を堀起こすので
沢山バイ貝が出てきてバイ貝をけずって泥をつめてみんなで遊んだりした。
親父も明治時代の終わりから大正時代の初めにはバイ貝に土とか粘土を詰めて
回して遊んでいたそうです。」

貝殻の加工(私がやったやつ)

ちょっとどういうことかわからなかったので、電話で直接お伺いした
なんということだ、リアル加工プレイヤーが現役だなんて。
深川は東京湾からもすぐで、江戸時代の埋め立て地なので、
昔は海だった土地柄。
そのため、当時はガス工事などで1.5M~2Mほど掘ると、
その下には割れた貝殻などがたくさん堆積していたようだ。
(死んでいる貝であって、過去に死んで地面に埋まっていたものと考えられる)

①バイガイの割れていないものを探し
②ほとんどは砂利道だったが、幹線道路がアスファルトだった為、バイガイの上部を削り取り平らに加工する。
③ガス管工事で掘られた場所には、貝殻とともに粘土もたくさん出てきたので、それをつめる。
④表面をアスファルトで削ることでバランス調整

ざっとこれだけの工程を子どもたちがやっていたことになる。
おそるべし、明治キッズ。大正キッズ。昭和初期キッズ。

当時のベーゴマの様子

『親父の話では鉄のコマになったのは、 大正時代の
終わり頃からで昭和18年頃まで盛んにベーゴマで遊ばれていました。、その頃
には、畳表を舟形にしてその上で回し戦うようになったそうで、私も終戦までは、
畳の床でした。 戦後になって前掛けの布だのゴムびきカッパだの帆布などで床
にしてやるようになった。』

床は3尺の畳表を船形にしてりんご箱の上に置き、舟型にして戦った。
ベーゴマのまき方は「女巻き」で
その当時は深川近辺では「お○○こまき」と呼んでいた。
「おち○こまき」もあった

その当時は東京は地域によって、両国や浅草のほうは「鉄独楽」が
流行していた。
(その当時の状況から見て、厚輪独楽だと思われる。)

3番目の兄貴(一番近いおにいさん)の友達が
鉄工所に勤めており、
地面にベーゴマの型を取って、鉄を流しいれみんなで使っていた
(関東ローム層なので、こち亀にも出てきたが型を取りやすかったようだ)

しかし、戦争が激しくなり、工場が廃止、埼玉の川口に移転となった
けれど、兄の友達が川口からベーゴマを送ってくれて、それでやっていた。

そのころの使用していたベーゴマはおちょこベーではなく、表面上に貝の名残があった。いまのものよりもっとおっきかった

古い時代のバイゴマ(こんな感じの模様だったと思います)

戦争に翻弄される子どもと遊び

「 昭和の18年頃から空襲警報発令の回数が頻繁になり
戦争が激しくなってきました。 戦争に使う鉄は献納とゆうことになり鉄である
ベーゴマは無くなってしまいました。
・・・・・・・・
その後、陶土で焼いた 「セトベー」 とか 「ガラスベー」 に
代わり 鉄のベーゴマは駄菓子屋には無くなってしまいました。

戦前もベーゴマは駄菓子屋で売っていた。
戦争の激化と共に
昭和13年国家の全ての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定した国家総動員法により家庭の中の鍋や金属類を既に提出していたにもかかわらず、
それだけでは物資は足りず
昭和18年8月12日に「金属類回収令」が発布
すでに金属が出尽くした一般家庭の中で
その影響は子どもの世界にも影響し、
子どもの遊びからも金属が消えていき
駄菓子屋から鋳物製のベーゴマが消えていった。

鋳物のベーゴマが消えた後になって出てきたのが
「瀬戸ベー」と呼ばれる、瀬戸物でできた独楽。
これは、割れてしまうが、まだ加工の余地があり、子どもたちは
この瀬戸ベーを買っては、削って加工した。

瀬戸ベー完品

しかし、その瀬戸ベーも戦局の悪化と共に消えてしまい。
次に出てきたものが「ガラスベー」であった。
深川で流通したものは、独楽のような形のものだったが、
ガラスなので削れないし、
ぶつかったら割れてしまうため、面白みにかけたので流行らなかった。

http://seaglass.ashibee.net/?eid=502586  

警察に見つからないように、大人にみられないように

「それでも、私達子供は親に内緒で瓶だの缶に入れて土の中に埋めて隠し持って
いましたが、見つかると取り上げられ 「警察に連れて行かれるよ」 と親からも
脅され酷く怒られ、 それでも、 時を見計らっては掘り起こし、 親に内緒でみ
んなで集まっては路地裏でベーゴマをしてました。」

戦時中の子どもたちの様子がリアルに伝わってくる一文である。警察や先生だけでなく、親にも見つかったら怒られる。「悪い遊びだから」という江戸時代の禁忌としての禁止ではなく、国のために鉄を差し出さないといけないためという、この時代特有の理由により、ベーゴマを行うことが難しくなっていった背景が見て取れる。

瀬戸ベーやガラスベーなど、子どもたち自身だけでなく、製造元も限られた材料の中で子どもたちのために試行錯誤していたに違いない。
瀬戸ベーやガラスベーの存在は知っているが、その使用していた頃の松下少年の思いをお聞きできたことは大きい。

「イッションセ」⇒「イッションべ」⇒「チッチのチ」

その時の掛け声が、
「声を小さく小さく」してやるように「チッチノ、チ」 でやってました。
私が親父から教えてもらった掛け声は、
「ベーゴマを一緒にしましょう」 とゆうことで、「イッション セッ」
昭和18年頃に流行った「イッション、ベッ」 は 「一緒にベーゴマをしましょう」
とゆうことで、 かけ声の響きが面白いので兄達が使っていました。

ここで、先に考察していた
「チッチノ、チ」の語源が出てくる。
松下さんがおっしゃるには、
「声を小さく小さく」という意味

つまり、1本指を口の前にあて「シーシーのシー」と言っている
にちかい意味であったということだ。

松下さんがずっと使っていた言葉は
「イッション セ」・・・・ いっしょにせ
一緒にしよう という意味だ。

確かに、これはわかりやすい。
私たち関西勢が「行きまーす セーノ」
と言っているのに近いですねという話をした。

お兄さんたちが使っていた
「イッション べ」は  「一緒にベーゴマ」という意味であるが
聞こえ方によっては「しょんべん」に聞こえるから
面白かったというのだ。

亀戸香取神社では 「セーノ、 ミトケ」 は、 とても面白いかけ声だと思います。
全国大会では「チッチノ、チ」 ですが、 「チッチノ、チ」のかけ声は、
私には悲しい時代の思い出で、 楽しい思い出がなく 「チッチノ、チ」は、今だ
に馴染めません。
戦後は、ほとんどの所で「イッション ベッ」 でやっていました。

確かに、松下さんの「チッチノチ」の思い出は悲しくなるのはわかる。
チッチノチという言葉と共に、空襲警報が聞こえてくる。

ではなぜチッチノチが広がったか

先に可能性として書いたNBの菅原先生スガチョのことは松下さんもご存知で
一緒に床を囲んだ時は「チッチノチ」ではなかったよ
とのことだった。

ここからは推測になるが
伝承遊びの特徴として、「チッチノチ」の言葉を聞いていた子どもたちが
そもそも理由をあまり知らず、または考えなかったまま、
他の地域でも広がり、掛け声として一部の地域で定着したことは間違いなく

それらのことが文献や説明書などで書かれたことで、
「チッチノチ」が定着したのではないかと考える。

松下さんが書かれているように、亀戸香取神社の「セーノ、ミトケ」のように
もっと独自の掛け声が出てこれば面白い。

少なくとも、「イッションセ」が「イッションべ」に子どもたちが遊びの中で
変化ではなく進化していったように、
子どもたちが掛け声を今の時代に合わせて変えていくことも良しとするべきなのかもしれない。


・・・・・あ

「ゴー シュート!」
っていうたとき、それすかんっていうてもたw


憧れの背中

「今の時代子供たちが夢中になって遊ぶ事が無いように思われ、 ベーゴマで夢中
になれる楽しさを経験させてやりたいものです。
子供の頃に何でも夢中になれる事は大切です。 これからもベーゴマを可愛がっ
てください。」

松下さんは現在85歳。
3歳から始めたベーゴマ歴は約82年
間違いなくレジェンドだ
ベーゴマの加工で培った、細やかな加工技術は
歯科技工士というご自身の職に活かされ
そして、定年後は、その機械と技術を全力でベーゴマの改造に向けておられる。

松下さんは思い出だけでなく
実際に
令和の子どもたちと床を囲み、同じ小さな鉄の塊がぶつかり合う中で話をする。
「伝承遊び」というのは、
思い出やその姿や背中から伝わっていくんだなと感じた。

会いに行きたい。そして私自身相手にもならないけれど
下手ながらも床をご一緒に囲みたい。
実際にお話しすることと
床の中で鉄塊同士で語ることもあるだろう。

竹蜻蛉の話や他の話もしたい
「死ぬ前に会いにおいで」と言われた。
最近よく聞く言葉である。

会いたい人がいる
聞きたい話がある。
幸せなことだ
必ず会いに行きます。

かっこいい・・・。惚れてまうやろ

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