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ノルウェイの森を(また)読む

(以前書いた文章なのですが、どうオチをつけたらいいのかわからず下書きのままにしていました。せっかくなので適当に手を入れて公開します。ちなみに写真はコロンビアの山で撮ったもので文章とは関係ないです。そのコロンビアのカリブ海沿いの山に20日ほどこもっていたので、次回からそのレポートを書いていく予定です)

村上春樹「ノルウェイの森」を初めて読んだのは19歳のときで、氏の作品を初めて読むうえでとりあえず一番メジャーなものを選んだ(当時はちょうど1Q84が出版されている頃だった)。当時はまだ物語の理解の仕方がうまくできなくて、キャラクターを理解することで解釈しようとしていた(アニメ作品などをそのように楽しむ風潮があったからだと思う)のである登場人物に対して嫌悪感を抱いたり、逆に別のキャラクターを好きになったり。具体的には緑にはとても好感を抱いたし(今でもそうだ)、直子やレイコといったキャラクターはあまり好きではなかった。そして物語自体については「救いのない後味の悪い話」という印象で終わり、当分読み返したくはないとも思っていた。

(ちなみに以下ネタバレは避けていますが、あらすじには触れていないので読んでいないと意味が分からない・意味がない文章だと思います)

次に同作品を読んだのは4年後、23歳になってカナダで勉強していたころに大学図書館でたまたま「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」を見つけた。もともとあまり本を読むわけではなく氏の作品はその間に一冊も読んでいなかったが、「世界の終わり~」にはのめり込んで読んだ。大学図書館にはそれ以外は短編集しかなかったが(誰かが2000年までの「全集」の長編の巻を手元に残して短編集だけを寄贈したようだった)それも読み終え、「ノルウェイの森」の文庫版をスキャンして取り込んでいたことに気づいて読み返した。それから一年後にはモントリオールの日系文化会館の図書室に氏のほとんどの作品があることを知って読み漁った。

「海辺のカフカ」以前の作品を一通り読み終え、長編では「羊をめぐる冒険」「世界の終り~」「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」といった冒険ものが好きになった。「ノルウェイの森」は順位をつけるとしたら上位には挙げないが、初期の作品は概して一歩引いて世界と関わりあう、恐らく氏本人を投影したような主人公であるのに対して「ノルウェイの森」は20歳前後の大学生の特有の不器用な側面も垣間見えて新鮮さがある。処女作「風の歌を聴け」もやはり大学生時代の回想だが、幼少期などの回想も多くオムニバス的に書かれていて、やはりどこか一歩引いて人生を見つめている(主人公に対してジェイが「優しい子なのにね、あんたにはなんていうか、どっかに悟り切ったような部分があるよ。」という場面がある)。「ノルウェイの森」の主人公のワタナベにもやはりそういった冷めた面が垣間見えるが、その上で他の登場人物との関係性にしっかりと向き合っていく。

村上春樹の作品が不思議なのは、結局読んでいてエキサイティングだったかというと必ずしもそういうわけではないし、読んだ後で何か学びがあったかというとそれを表現するのも難しいことだ。もちろん主人公が何回「やれやれ」と言っただとか、またスパゲティーを茹でているとか(ちなみに短編「スパゲティーの年に」というスパゲティーを茹でる話さえある)、そういう表現をかいつまんで楽しむこともできる。でも本質にあるのはいくつものストーリーの同時性・キャラクターの総体性に解釈の幅を持たせつつ(つまり答え合わせ的なものが存在しない)、地に足がついているというか、現実のカルチャーをリファレンスすることによって物語上にファンタジー的な世界と我々のいる世界が連続的に存在していることだと思う。「ノルウェイの森」に話を戻すと、ファンタジー的な要素こそ少ないが施設で治療をする直子やレイコ(そしてキズキ)は、大学生活を送る主人公や緑から見ると別の世界での住人である。その二つの世界を主人公がつなぐことで物語が展開される。

32歳になってまた「ノルウェイの森」を読み返して(少なくともこれで4回目)また違う観点から作品を楽しむことができた。それは登場人物ごとの意味を考えるのではなくあくまで総体的に理解するという観点だ。あまり他の人の感想文や解説は読まないし好まないのだが、それでも目につくもので「羊をめぐる冒険」では主人公と親友の「鼠」は同じ人物の写し鏡なのではという解釈がある。物語上そういったほのめかしはないので私はそのようにエクストラポレートというか無理のある想像をするのは好きではないのだが、話の筋とは別の観点、つまり作者の立場からすると、人間の複雑に絡み合ったいくつもの特性のうちの一部を一人のキャラクターとして、そして残りの特性を別のキャラクターで表現していると考えれば納得がいくのではと思う。「ノルウェイの森」においても主人公がその特性の片方を持ち、直子やレイコ、キズキといったキャラクターが「どこかでねじまがって、よじれて、うまく泳げなくて、どんどん沈んでいく」(上巻より)特性を持っている。氏の作品は比喩を使った描写にあふれているのでそこから引用すると

僕がPR誌のグラビアに羊の写真を載せたことは一方の観点(a)から見れば偶然であり、他方の観点(b)から見れば偶然ではない。(略)もっと訓練すれば、僕は右手で(a)的な人生を操り、左手で(b)的な人生を操ることができるようになるかもしれない。
「羊をめぐる冒険」より

この表現を借りれば、ストーリーの上である人物(右手)は一歩引いた、悟ったような性質をもっていて、別の人物(左手)は弱さだったりねじまがった性質を持っているが、結局はどちらも同じ語り手から生えてきている。物語を通して登場人物一人ひとりについてこの人は救われたのか、あの人は救われなかったのかと分析していくと勝者と敗者に分かれてしまい、救いのないエンディングに感じられてしまうが、登場するキャラクターを総体的に見ることで全体として変化があった(それがポジティブなものかネガティブなものかは別として)ことに意味がある作品なのではと思う。氏の「国境の南、太陽の西」にも主人公が高校時代に付き合っていて深く傷つけて別れてしまった人が後になって亡霊的に何度か登場するが、結局はその付き合っていた相手が救われたかどうかではなく主人公の立場から総体的に見て自分の変化に寄与していることに意味がある。というと主人公の立場から見てとてもエゴイスティックだし恋愛関係を利用するミソジニー的な考え方にもとれるが、そうやって人は生きていくしかないし、もっと言えば傷ついたときにそれを癒して復帰するための仕組みが社会には必要だという考え方もできる。

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