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「ノーベル文学賞作家となった川端康成と皇国主義者となった三島由紀夫」

日本で最初にノーベル文学賞を受賞したのは川端康成(1899〜1972)です。川端がノーベル文学賞を受賞したのは1968年のことです。
実は、この1968年のノーベル文学賞では三島由紀夫(1925〜1970)も受賞候補者として名前が挙がっていました。そして、本命は三島由紀夫だったのだとアメリカ合衆国出身の日本文学研究者のドナルド・キーンは言っています。川端は三島に「自分を推してくれ」と頼み、三島は川端に関する推薦文を書いてノーベル財団に送ったとされています。

この1968年のノーベル文学賞は、日本を代表する文学者2人のその後の人生に影響を与えました。
ノーベル文学賞の受賞を逃した三島由紀夫は、1968年に祖国防衛組織として「楯の会」を立ち上げ過激な活動にシフトしていきます。むしろ、戦後間もない時期であったからこそ過激な思想を持つ三島由紀夫はその影響力から受賞を逃したとも言えます。
三島は、1970年11月25日「楯の会」の会員4名と陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地の総監室に人質を取って籠城しました。彼はバルコニーから自衛隊の決起を呼びかける檄文をばら撒き、演説を行いました。彼の決死の呼びかけに応える自衛隊員は1人もなく、三島は「楯の会」の森田必勝と2人で割腹自殺を行って果てました。

川端康成は1968年にノーベル文学賞を受賞しました。その受賞の理由は、下記の通りです。
「日本人の心の精髄を、優れた感受性をもって表現、世界の人々に感銘を与えたため」
川端康成は1968年のノーベル文学賞の受賞後、1972年4月16日に72歳でガス自殺を図りました。遺書はなく、自殺の理由は未だ分からないままです。よく取り上げられる川端の自殺の要因をご紹介します。
①川端康成独特の滅びの美学に殉じたとする見解
②交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺に大きな衝撃を受けたとする見解
③老醜への恐怖からとの見解
④ノーベル文学賞受賞後の重圧で思い通りの作品が書けなくなったとの見解

ちなみに、川端康成は三島由紀夫の葬儀にあたり、葬儀委員長を務めました。
川端康成は3歳にして両親を亡くし、その4年後に祖母を亡くし、その3年後に姉を亡くしています。その後、祖父との2人の暮らしの生活の中で生きてきました。その人生の初期に身近な家族との死別があり、彼の作品に流れる一種冷徹なまなざしはこうした経験の所産かもしれません。
「歴史にIF(もしも)はない」とよく言われます。けれども、「もしも1968年のノーベル文学賞を川端康成の代わりに三島由紀夫が受賞していたならばどうであっただろうか?」ということを想像してしまいます。
ノーベル文学賞を巡って引き裂かれた2人の文豪の数奇な運命について考えてみました。

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