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【アラブの歴史】

アラブの歴史について考えてみます。そのためにはまずその対象となる地域を定義してみます。

現在「アラブ世界」と呼ぶ場合、アラビア語を話す「アラブ人」が住む地域を指します。アラビア半島から北アフリカに広がる地域のことです。
「アラブ世界」は東西で2つに分けられます。
①マシュリク(太陽が昇るところ)
・イラクからエジプト迄の東側地域。
②マグリブ(太陽が沈むところ)
・リビアからモロッコ迄の西側地域。
エリアとすると広大な領域であり、東西の地域は歴史的な関係性をあまり持たずに発展してきました。そして、北アフリカについては地中海を挟んでギリシア・ローマ文明との関わりの強い地域でした。
ですので、自分が「アラブ世界」について考えるにあたっては東側の「マシュリク(日の昇るところ)」、イラクからエジプトにかけての地域を対象にして進めて行きます。

「アラブ世界」について考えるということは、必然的に「イスラムの歴史」について考えなければなりません。「イスラムの歴史」とは、ムハンマド(570頃〜632)がメッカでイスラム教を創始してその勢力を広げていった歴史のことです。

僕にとってアラブ、ペルシア、中央アジアの歴史は1番苦手な分野です。理由は、情報量も少なく、文化的な接点も乏しい地域だからです。そもそも、その歴史を考えるにあたって初めから大きな疑問を抱えています。
①なぜこの地域からイスラム教が起こったのか?
②なぜ7世紀という時代にイスラム教が起こったのか?
この2つの疑問に納得できる説明ができずにいます。
逆に言えば、この大きな疑問に自分なりの「回答」を出したいなと思っています。
イスラム世界の歴史はエリアが広範囲に渡りますし、多様な民族が関係してきます。登場する王朝も数が多く、拡大・衰退、分裂・滅亡を繰り返し捉えどころがないくらいです。
学校で習う年表の羅列みたいな歴史には意味がありません。そうならないよう少しずつ時間をかけて考えていきたいと思います。

イスラム教はアラビア半島の西側に位置する聖地メッカで起こりました。
ムハンマド(570頃〜632)が40歳頃に創始し、その後622年7月16日に信徒とともに北方のメディナに移って信仰共同体(ウンマ)を設立しました。
この移住のことをヒジュラ(聖遷)と呼び、西暦622年はイスラム暦の紀元とされています。
その当時のアラビア半島は統一された社会共同体のない部族社会であり、部族間の対立が絶えない環境でした。布教を行うには反対勢力との戦闘に勝ち抜く必要がありました。
少しずつ信徒を増やしたムハンマドは630年に聖地とされるメッカを征服。632年にメッカへ向かう大規模な巡礼(別離の巡礼)を行いました。巡礼から戻って数ヶ月後にムハンマドは亡くなります。享年62歳(推定年齢)でした。ムハンマドが亡くなった時点で、アラビア半島のほとんどがイスラム教に改宗していたとされています。

アラビア半島について考えます。
・半島の南側には大きなインド洋がどこまでも広がっています。
・半島の西側には「紅海」があり、その先にはエジプトがあります。
・半島の東側には「ペルシア湾」があり、その先にはイラン(ペルシア)があります。
・半島の北側には現在のシリア、イスラエル、ヨルダン、イラクにあたる乾燥地帯が広がっています。
ムハンマドが生きた時代(西暦570〜632年)のエジプト、イラン、現在のイラクの地域に君臨していたのはササン朝ペルシア(226〜651)でした。

アラビア半島の大部分は不毛な砂漠地帯で覆われています。しかし、紅海から程近い位置にある聖地メッカのある沿岸地域は、季節風の影響で農耕に適した温暖湿潤気候となっています。

「ベドウィン」について考えます。その特徴は下記の通りです。
①アラビア語で「荒野」に住む者を意味する単語。アラブ系遊牧民を指す呼称。
②アラビア半島を故地とし、アラビア語を使う。
③父系の血縁部族社会を形成。
④羊・ヤギ・牛・ロバ・ラクダ・馬などの遊牧で生活している。

アラビア人はベドウィンに代表されるような遊牧民や「砂漠の民」のイメージが強いですが、多くの穀倉地帯地帯を抱えた「農耕民族」でもあり、インド洋を股にかけた「海洋民族」でもあったのです。

アラビア半島が砂漠地帯であること、メッカのある沿岸地域が農耕に適した気候であることを説明しました。
また、砂漠地域のアラビア人が「ベドウィン」と呼ばれ、羊・ラクダ・馬等の遊牧を行なっていることにも触れました。一方で、南西部海岸地域は降水量があり農業が発達し、海上交通の要衝でもあったことからアフリカ大陸との間で「紅海貿易」で商業が発達しました。

アラブ、ペルシア、中央アジアの地域に共通する点を考えてみました。
①地理的要因
自然環境の厳しい地域に生活しており、地理的に下記の通りに大別できる。
・山脈部・高原などの高地
・砂漠と草原の乾燥地帯
・比較的水資源に恵まれたオアシス農耕地帯
②生活様式
・砂漠や草原では遊牧民が、オアシス地帯では農耕民と商業民が活動し、東西の交易や文化交流を促してきた。
③隊商交易
・乾燥地域でも耐久力のあるラクダなどに荷を積んだ商人たちが一団を組んで長距離交易を行った。

人類の生活類型の2大区分は「移動型」と「定住型」に分けられます。
遊牧民はこの類型では、「移動型」の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指します。
アラブ、ペルシア、中央アジアでは、過酷な自然環境の中で、遊牧を生業として通商交易を行う生活が主流なのです。
中国、、朝鮮、日本などは東アジアでは、温暖湿潤な気候環境で稲作農業を基礎とした定住社会を築いてきました。前述の生活類型では、「定住型」に分類されます。

生活する自然環境の違い、生活類型の違い、商業民と農業民の違いが、僕たちが「アラブ」「イスラム」を理解しにくい要因なのではないでしょうか?

「文明」について考えます。
世界史の学習で1番最初に教わるのは「世界四大文明」です。
四大文明とされるのは下記の通りです。
①メソポタミア文明
②エジプト文明
③インダス文明
④黄河文明
では、果たして「文明」とは一体どのように定義されるものでしょうか?
「文明」
・人間が作り出した高度な文化あるいは社会を包括的に指す。

文明が発生するための要件は下記の通りです。
①農耕による食糧生産
②余剰農作物の蓄積
前述の生活類型で考えると「定住型」に該当します。

農耕による食糧生産ができる肥沃な地域に、人が定住を始めることで「文明」が成立します。
四大文明と呼ばれる地域では必ず大きな川があり、その周囲に集落を作って都市が築かれていきました。
つまり、より多くの食糧生産が可能な地域に人々が集住することで「文明」が成立していったのです。
僕たちの知る世界史は、この「定住型」農耕民が築いた大文明を中心に教えられています。
地図帳を広げてユーラシア大陸をじっくり眺めてみて下さい。
文明が起こったとされるメソポタミア、エジプト、インダス、中国には川があり、肥沃な土地である「緑色」の地域です。
僕たちが考えているアラブ、ペルシア、中央アジアはその4つの文明の周辺の不毛な土地である「茶色・黄色(山や高原、森林)」「白色(砂漠)」の地域です。そして、広大な不毛の土地の隙間に「薄緑色」の遊牧地があります。そこを彼らは家畜の餌を追いながら遊牧生活を送って来たのです。

農耕の発達した地域には人が集まり、「文明」が発達しました。「文明社会」では文字による記録が飛躍的に発達し、多くの文献が残されて来ました。しかし、遊牧民は家畜を連れて食糧のある地域へ移動し続ける生活でしたので、農耕民と比較すれば文書による記録は限られています。そのことも遊牧民の歴史を分かりにくくしている要因だと思います。

世界史は「遊牧民族」と「農耕民族」との抗争の歴史として捉えることができます。
肥沃な地域で農耕の発達により豊かになった「農耕民族」に対し、過酷な乾燥地域で遊牧を続ける「遊牧民族」。
「遊牧民族」は過酷な環境に生活しており、気候変動の影響を受け易かったため食糧が不足すれば隣りの「農耕民族」から略奪して生き残って行くしかなかったのです。
「遊牧民族」が周期的に「農耕民族」に襲いかかるのはそうした気候変動、食糧不足による理由もあったのだと考えます。

そして1つの仮説を立てました。
「イスラム教は厳しい生活環境に生きる遊牧民族の生活スタイルに適した宗教だった」のではないか、という仮説です。

四大文明の隙間にある厳しい自然環境の中で生活していた「遊牧民族」。
牧畜と商業交易で生きていたアラブ、中央アジアの「遊牧民族」にイスラム教が幅広く信仰されたのはそうした文化的な理由によるものではないかと考えています。

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