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「私」を運ぶ「ワタシ」という乗り物

心臓が割れた、と感じるほど全力で走ったことはあるだろうか。

皮膚に伝わってくる液体が、自分の汗だという自覚。
脚と腕が理性では制御できなくなる、恐怖にも似た感覚。
息の仕方など忘却している筈なのにやけに内耳で響く呼吸音。


そして、その全てを後方へ、一秒前の過去へ、次々と追いやる強烈な風が吹いている。
風を呼んだのは、風を作っているのは、紛れもなく自分自身の身体なのだという湧き上がるような悦びを、私は、今でも覚えている。

耳の付け根がじんじんと痛む。
次々とうしろに流れていく目の前のトラックは、こんなにも濃い赤茶色だっただろうか。
レーンを区切る青いほどの白線のしろさが、眼球に細かく反射しては消えてゆく。
息が出来ない。
ここは陸の上だったはずなのに、なぜ私は溺れかけているのだろう。
それに、どうして自ら進んでこんな罰ゲームみたいにしんどいことをしているのだろう。
ちょっと笑える。
そもそもここはどこなんだろう。
分からない。
分からないけれど、この数十秒の間、目の前の1周400メートル・幅1.22メートルの路は、私だけのものだ。
それだけは、この瞬間、自分の名前よりも出自よりも確かなことだった。

私は、「ワタシ」を乗せて走る風になった。

* * *

試合に出られたのは、部活内で短距離走400mにエントリする選手が私しかいなかったから。
たったそれだけの、でも、それだけにラッキーな偶然。
高校から陸上競技を、いや、スポーツそのものを始めた私には、出来過ぎた幸運と言える。

幼稚園、小学校、中学校。
ずっと運動神経が悪かった。
体育の授業は目立たない隅のほうでこそこそと受け、休み時間まで球技に興じるクラスメイトたちを信じられない思いで見つめていた。
サッカーやバスケットボール、テニスにバレーボール。
目立つ生徒が運動部で華々しい成績をおさめて皆に称賛されるのを、異世界の出来事のように感じていた。

中学生になる頃には、私の専門は机の上の勉強、と決めつけていた。
平日は学校帰りに塾に通って夜遅くまで英単語や数式を詰め込み、
長期の休みに入ると、学習コーナーのある公民館へ行って朝9時から夜9時まで、全ての教科の問題集を片っ端から解いていった。
それは、でも、そんなに苦ではなかった。
ゲームをしているような感覚さえあった。
成績があがると嬉しく、下がると悔しい。
何も考えずにレベル上げに勤しむ日々。
そして、私は希望の高校に進学した。
ゲームクリアの報酬として。

はじめて校門をくぐり抜けて校舎に入り、教室で指定された席に着いたときに「それ」が私のところにやってきた。

「それ」は私に言った。
「走れ。とにかく走れ。倒れるまで走れ」
と。
私は従うことにした。
放課後を待って担任教諭を捕まえ
「走ることのできる部活はどこですか?入りたいのですが」
と聞いた。
彼は一瞬怪訝な顔をしたあと、急に大きく頷いて
「ああ。それなら陸上部だよ、ようこそ」
と言った。
担任教諭は陸上部顧問だった。
私はその日のうちに入部届を出して、翌日から練習に参加することになった。

今、考えても不思議なことに、未経験のスポーツをいきなりはじめることに、何の戸惑いも不安も感じなかった。
「それ」の命令に、ただ素直に従った。
「それ」の正体を、未だに言語化できずにいる。

“鬱積したストレスの爆発?” 
“コンプレックスの克服?”
“抑圧された自我の解放?”

そんな下らない分析に、何の意味があるというのだろう。

私は、走りたかった。
ただただ、自分の身体がどうにかなるまで、走りまくりたかった。

* * *

そうは言っても、当然、いきなり「走る」ことなど出来るわけもない。

陸上競技、とりわけ、トラックと呼ばれる中・長距離走(800m、1,500m、3,000m障害、5,000m、10,000m)と短距離走(100m、200m、400m走+ハードル女子100m、男子110m、男女400m)は
「だれがいちばん速いか」
を決めるだけの究極のシンプルさが魅力の競技だ。
それだけに基礎体力やコーナリングのうまさ、瞬発力といった技術面がものを言う。
また、身長・体重・体脂肪率などの身体スペック、日々の食事、メンタルの在り方にも向き合わなければいけない。

真剣にスポーツをしてきた人にとっては当たり前以前の常識でも、それまでスポーツどころか積極的に体を動かすことを何一つやってこなかった私には、ひとつひとつが新鮮で、そして難しかった。

まず、入部して最初の1か月は、味わったことのないほどの酷い筋肉痛に苦しんだ。
練習に入る前の「アップ」の時点でへたばり、とてもじゃないが、メインの練習に辿り着けないこともしばしば。
情けなさに泣きそうになりながらも、なんとか毎日練習に参加した。
練習というより、体を動かすことに慣れましょう、というレベル。
100年ぶりに再起動したロボットでも、もう少しマシな動きをしただろうというほど無様だった。

それでも、若さと慣れはバカに出来ない。
数か月もすると、私は普通に練習に参加できるようになった。
「身体」は変化するのだな、と増えた体重や大幅に減った体脂肪率を見て妙に感心したのを覚えている。


最初のウォーミングアップの為の軽いランからはじまり、ストレッチ、そしてフロートと呼ばれる、全力ではなく7割くらいの力でフォームや筋肉を意識しながら50mを10本くらい流すトレーニング。
そこから各種目別に分かれての練習がはじまる。
私はたまたま選手のいない400m走を「担当」することになった。
スターティングブロックを使ったクラウチングスタートの練習(少しでも動くと失格になる)、筋トレ、ウェイト、走り込み。
きつかったけど、身体が固く引き締まってゆくのは単純に面白かった。
400mは瞬発力のみでは走破できないので、体力や筋肉をつけることがとても大事なのだ。

梅雨入り前のある日、コーチに呼ばれ、「陸上部 〇〇高等学校」と印刷された黒いジャージと、試合で着る紫色のユニフォーム、スパイク、練習日誌用のノートを渡された。
入部届はとっくに受理されていたのに、
「これで、正式に部員になったんだ」と思った。
妙にドキドキした。
降り出した雨に、大事な相棒たちが濡れないようにすごく気を遣って鞄にしまいこんだ。

うちの高校の陸上部は、先述の顧問はじめ、部員も皆、親切且つ、個性的且つ、超マイペースな人たちばかりだった。
チーム全体としては弱小といってもいいレベルで、のんびりした部だったし、他人と争うことに興味のある人もほとんどいなかった。

突然入りこんできた初心者の私を排除しようとしたり、笑ったりする人が誰もいなかったこと、今でも心から感謝しかない。

コーチはまあまあ厳しかったけれど、怪我をしたときの応急処置やアイシングの仕方、食事の管理や、スパイクなどの用具を大事に扱うことなど、大切なことを幾つも教えてくれた。

弱小クラブだったが、真剣に練習をしない者は誰もいなかった。
結果と過程を完全に切り離せる人種に、私はうちの陸上部で初めて出会った気がする。
先輩たちにとって、結果を出すということは、そんなに興味を引かれる事柄ではなかったらしい。
「走るのは、自分で選んだ楽しいことなんだから、練習そのものを工夫しないと。それで試合出たら、負けてもめっちゃ楽しいから」
と笑っていた。
先輩の言葉を、それまで結果だけがすべて、の世界を彷徨っていたその時の私が、正しく理解できていたかどうかは怪しいものだった。
でも「ここにいていいんだよ」と言われた気がして嬉しかった。

皆、黙々と日々のトレーニングをこなし、どうすればもっと効率的に練習が出来るか相談し合っていた。合宿の役割分担も、部内の役職決めも、すごくスムーズに終わるので、揉めているところをみたことがなかった。
部室も先輩後輩関係なく、気が付いた者が片付けているのでいつも整頓されていたし、試合はいつも散々な結果だったけど、みんな「自分の」全力を出していたのでスッキリしたものだった。
「今の自分」が「過去の自分」より少しでも成長できたことに大きな喜びを見出せる人ばかりだった。

その態度が「スポーツ的にどうか」という点については、私には全く分からない。
きっとプロの世界ではあり得ないことだし、高校の部活動でも、もっと強いチームなら笑止千万なんだろうと思う。
実際、私を含めてうちの部員たちのなかに「走る才能」を元々備えた天才、なんて居なかったから、綺羅星たちの世界の話はしたくても出来ないのだけれど。

* * *

初めて公式試合に出た日。
いつもの砂場みたいな学校のグラウンドとは全然違うトラックの感触に驚いた。
厳めしい顔の審判にビビった。
なにか嫌味なことを隣の名門校の選手に言われたような気もするが、緊張し過ぎてそれどころではなかった。
ユニフォームに貼りついたゼッケンをいじっているうちに、位置につくように指示が出される。
どうしよう、絶対にこんな場所で走るなんて無理だ。
今まで、すごく練習したけど、400mだって練習では走れたけど、こんな、広くて、強そうな人たちばっかのとこで、しかも、これ絶対400m以上あるって。
こんな果ての見えないとこで走れない。
こわい、お腹痛い。
それになんか、いつもより、スターティングブロック高くない?

「走り出したら、緊張とか言ってられんくなるて」
なんて呑気におにぎりを食べていた先輩を殴ってやりたい。

雷管が鳴り響いた瞬間、それでも私の脚は、腕は、勝手にものすごい力で「ワタシ」を引っ張って動き出した。
唖然とする「ワタシ」を私の中に置き去りにして、私の身体は駆動した。
スパイクを履いた脚は、爪を立ててしっかりと地面をとらえ、精巧な機械のように左右交互にトラックを蹴っている。
もうすぐ最初のコーナーだ。
大丈夫だろうか。
大丈夫、腕が、翅になり、リズムを脚に伝えながら重心をとっている。
あとは心臓と肺が最深部から動力を送り続けるだろう。

私が、「ワタシ」を動かしている。
私の身体は、ワタシを乗せている。
先輩は、嘘をついていなかった。

ゴールした瞬間、私は酸欠でぶっ倒れた。
400mを全力疾走することは、思った以上に初心者にはハードだった。
究極の無酸素運動とはよく言ったものだ。
酸素スプレーを口元にあてがわれながら、なんだかふわふわとした嬉しさを感じていた。
誰が一番にゴールしたかは全然気にならなかった。
(もちろん私は最下位でした)
私が完走できたことが一番すごいことだった。
落ち着いた後、先輩たちと一緒に、タイムが貼り出してある場所を見に行った。
私の名前の横には、練習とは比べ物にならないくらい速いタイムが印字してあった。

先輩たちはこれを見てにやにやしていたのか…。

* * *

私は学校を卒業してからも勉強をそれなりに頑張ったし、仕事やお金を得ることに関しても、控えめに言って苦労した。
だから、この世はある程度、食うか食われるか、勝って笑っている者のかげには負けて泣く者が存在するんだということを一応は理解しているつもりだ。

結果を出さなければ次に進めない幾つかの事柄もあるにはあった。

でも、私があのとき陸上競技と言うスポーツから貰ったものは、目に見える「結果」なんかより、
生きることそのものに関わる大きなものだった。


言葉にするのは、難しい。

例えばそれは、
・訓練された身体が、心よりも速いスピードで物事を推進する凄さ
・自分で選んだことを工夫してやり遂げる嬉しさ
・他人に興味を持ち過ぎないことの心地よさ
だったりするのだろう。

それは、どれもが正解で、どれもが違う気がする。

あのとき、私が得たことは、私が感じたことがすべてだから。

空気の匂い、温度、自分の呼吸音だけが鳴り響く空間に放り出され、風と一体化したような幻想をみたこと。
先輩たちの笑った顔や、奢ってくれたジュースの美味しさ。

全力疾走しなければ、決して見られかった景色ぜんぶ。

* * *

そもそもスポーツって何なのだろう。

ふと気になって「スポーツの語源」についてググってみた。

JSPOplusさんによると

スポーツの語源は「あるところから別の場所に運ぶ・移す・転換する・追放する」の意味を持つラテン語「deportare(デポルターレ)」とされています。「de」は英語の「away」を意味し、「portare」は英語の「carry」を意味します。
ラテン語本来の意味から「気分を転じさせる」「気を晴らす」といった精神的な移動や転換に変化し、その後「義務からの気分転換・元気の回復」が一義的な意味になったという説が有力です。

JSPOplusより

ということらしい。

これを読んでいると、私は確かにスポーツをしたんだ、という想いが確信に変わる。

私は、ワタシをそれまでの人生とは別の場所に運び、義務からの気分転換をしたんだという確信に。

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