【連載小説】 真実なお隣さん④-不安-
子どもたちの行列が行き過ぎるころを見計らい、史江も重い腰を上げる。
今日は朝からミーティングが入っているので、いつもより早めに出社しなければならない。
先日、入社2年目の若い社員が、契約の手続きを間違えてしまい、大口の顧客を取り逃がしてしまった。
そのせいか、このところ部長の虫の居所が悪く、ささいなことで周りに当たり散らしている。
うっかりミーティングに遅刻でもしようものなら、史江も被害を被りかねない。
そろそろ準備しないと、誰にともなく、ひとりそう呟く。
しかし、頭の中には先ほど目にした光景が浮かんでいた。
洗いたてのシャツに袖を通しながら考える。
それにしても、いったいどうやって引き継ぎすれば良いのだろう。
今度の日曜日は、年度初めということもあり、地域の総会が開催される。
おそらくそこで、各地域の新しい役員のお披露目がなされるはずだ。
それまでに、ちゃんとに引き継いでおかなければ、なんとなく体裁が悪いのではないか。
そう思うと、急に不安になり、シャツのボタンを留める手が止まった。
この1年間、役員の仕事自体はそんなに大変なものではなかった。
しかしたった1回だけ、悔やんでも悔やみきれないことがあった。
推しのライブと地域の総会の日にちが被り、泣く泣く諦めたのだ。
ライブ会場までは、朝いちで家を発たないと間に合わないため、14時から開催される総会にリモートで参加できないか、何度も頼み込んだ。
しかし、関係者の「うちら機械に弱いから、ごめんね」という一言で、あっさりと片付けられた。
機械に弱い関係者が悪いわけでも、総会の開催日を決めた人が悪いわけでもない。
誰が悪いわけではないのだが、強いて言うなら、このタイミングで役員が廻ってきた自分の運が悪い。
この不満をどこにぶつけることもできず、史江は全てを受け入れ、総会に出席した。
心ここにあらずだったこともあり、何の話を聞かされたのか覚えていない。
ずっと楽しみにしてきたライブだったせいか、しばらくの間、仕事のモチベーションは下がり、肌の調子もずいぶんと悪くなった。
”推し活”を、生活の最優先事項と位置づけている史江にとって、あの悔しさは、生涯忘れることはないだろう。
今年こそは、何が何でも全ての”推し活”を全うしたい。
そのためには、妨げになりそうなこの不安材料は、いち早く手放さないと。
そこまで考え、ちらりと時計に目をやる。
8時半までに家を出れば、ミーティングには間に合うだろう。
往復で1分。
10分もあれば、今の状況くらいは伝えられるはず。
そうして、居てもたってもいられなくなってきた史江は、慌ててサンダルを履くと、ばたばたと玄関を飛び出した。
向かうのはもちろん、向かいの家である。
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