豊臣秀吉の子供

歴史が好きです。
豊臣秀吉の子供に関してです。

秀吉には50歳過ぎまで、実子がいませんでした。
それなのに、50歳を過ぎて2回も子供が出来ました。
どちらも淀との間に、鶴松と秀頼の2人が生まれました。

歴史上、その頃もその後も、この2子の生誕に関して疑問を持たれてきたと思います。2人とも秀吉の子供ではないのではないか、と。

私もそう思います。

まずは、誰もが考えている理由として、「淀の裏切り」が考えられます。

秀吉は淀にとって実父の浅井長政の敵でした。淀は秀吉の側室になってからも秀吉に対してかたき討ちを常に考えていました。
そして思いついたのが、豊臣政権の継承者を、秀吉の血筋の無いものを据えること、それも浅井家の血筋の子供を天下人にすることでした。
秀吉とは別の男と密通することで、そのかたき討ちを実現することを考えつき、実行したのです。

もちろん秀吉は、実子が出来たときは自身も疑ったと思います。
しかし、実子がのどから欲しかった秀吉にとっては、疑うよりも喜びが勝り、しかも豊臣政権が長く続いていくことに安堵したため、疑うことを葬ったのだと思われます。

しかし・・・、この説は、無理があるように思います。

淀と密通した男の側からすると、これは露見すると、その男は確実に殺されるのです。

危険な大勝負です。
男の側には何のメリットもないのですから。

次に考えたのが、「秀吉自身の陰謀」です。

秀吉は多くの側室がいたにもかかわらず、50歳を過ぎても子供が出来ませんでした。
そのため自分には子種がないことを自覚していたと思います。

しかし、どうしても実子が欲しかった。
実子を作ってしまえ、と考えたのだと思います。

豊臣政権を継承するには、高貴な生まれである淀の血筋を尊び、多くの側室の中から淀を選び、彼女と謀議し、淀に他の者と子供を作るよう指示した、と考えました。

実際に子供が出来てみると、秀吉の正当な後継者の位置づけとなり、この子が成人することで豊臣政権が末永く続く見通しがついたことに安堵したと思われます。

つまり、秀吉が考えた作戦だったという説です。

この説ですと、私は納得がいくのですが、どうでしょうか。


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