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曖昧な死

すれ違い様、目を伏せた。
涙が落ちた。
余計に泣いていることを明らかにしてしまった。まさにすれ違う数瞬、二度と会うことのない他人のその人が、こちらに顔を向けた気がした。
朝っぱらから、大粒の涙を落としながら一人歩く女。驚いて目を捕らわれても無理はない。一体何があったのだろうと、多少の思いを馳せるかもしれない。
それでも、その涙の本当の理由に思い至ることはまずない。
まさか、数分前に見た、道端に落ちるメジロの死骸に涙しているとは決して思い至らない。

いつもの道を駅に向かって歩く。そんな無防備な視界に飛び込んできた死。不自然な角度で横たわっていなければ、地面に下りて羽根を休めていると見間違えたかもしれない。白く縁取られた小さな黒い目はまん丸く開かれていた。視界にその姿を捉え、即時に目をそらした。体は竦み、次の一歩はその小さな死骸を中心に大きく迂回していた。
あれは作り物だったかもしれない。
目があんな風に見開かれたままなんておかしい。梅の開花が待たれるこの季節、気の早い飾り用の作り物だったかもしれない。死から一歩一歩確実に遠ざかりながら、必死に現実から逃避する。
そもそもあまりに希薄な現実だった。
思い出そうとしても、もう鮮明な映像が戻ってこない。つぶらな黒い目を中心とした萌黄色の歪な楕円。メジロの輪郭が曖昧だ。
もう一度戻って、作り物であると確認したい気持ちさえ生まれてくる。でも確かめて本物だったら、という恐れと、戻っていたら会社に遅れる、という焦りが、歩みをそのまま進ませた。
帰りにもあれはああしてあそこにあるだろうか。
帰りは違う道で帰ろうか。
そもそも、私は帰りにもこのメジロの死を覚えているのだろうか。

結局、その日は仕事の合間に2度ほどメジロの目を思い出した。終わらぬ仕事を脇によけて帰り支度を始めると同時に、
あれはまだああしてあそこにあるだろうか。
と思った。
じわりじわりと思い出す。
私のことだから、能天気にすっきり忘れて、メジロの死骸が横たわる道の入り口で俄かに思い出し、心臓をぎゅっと掴まれたように怯えるのではないかと思っていたが、カバンにいろいろ詰め込みながら、他の道を使って帰ろうかと思いをめぐらせている。思いの外、メジロは深く私に刻まれていた。

まだあそこにあるだろうか?あったとして、あのままにあるだろうか?

あのあたりは野良猫も多い。
ふと、幼い頃の思い出が蘇る。

小学校から帰宅して玄関前に着くと、そこに雀の死骸があった。
いや、あの時も、散らばる羽根とちいさな塊があることを把握した時点で目を逸らしたから、あれが果たして雀だったのかさえ定かではない。
そこへ、当時庭で半野良で飼っていた猫が駆けてきて、にゃあと私を見上げた。
それは急激な衝動だった。すごい勢いで嫌悪感が私を支配した。
何を言ったかは覚えていないが、ただ激しく叱咤した。
言葉を投げつけて、逃げるように家に入った。
家には誰もいなかった。部屋に入り、何か叫んだ記憶がある。
どれくらい経ったか。多少落ち着くと、いろいろな思いが去来した。
ただただ可愛いと思っていた猫への、強烈な嫌悪感という最初の激しい感情の隙間から、
にゃあと鳴いて見上げたあの無邪気な顔、怒鳴られて首をすくめ怯える顔が思い出された。そして次第に、私のただの無理解にすぎないのではないかという疑いが染み出して来た。
捕らえた獲物を見せて褒めてもらおうとする猫の習性を思い出した。いつか読んだ本にそんなことが書いてあった気がする。
あんなに叱ることはなかったのだ。あれは猫の本能なのだ。
彼の頭を撫でてやりたいと思った。怒ってごめんね、と声をかけたいと思った。
しかし、体が動かない。まだ玄関に死骸がある。まだ幼かった私は、ぐちゃぐちゃと感情が混ざり合うのに耐えられず布団に潜り込んだ。
いつの間にか眠ってしまい、目覚めた時には家族も帰っており、いつも通りの夕食前の風景となっていた。母に鳥の死骸のことを聞いたが、何も知らなかった。母が帰ってきた時には、玄関には鳥の死骸などなかったと言うのだ。そんな不思議なことがあるだろうか。この日は喉が詰まってあまり食べられなかった。
翌朝、学校に行くために玄関を出た途端、身を硬くした。そうだ、すっかり鳥のことを忘れていた。恐る恐る足元に眼を移したが、そこには羽根一枚落ちていなかった。
猫は私に激しく叱られて、鳥の死骸をどこか他所に移動したのかもしれない。褒めてもらおうと持ってきたのに、怒鳴り散らされ、しょんぼりと運び去ったのかもしれない。でも、羽根一枚残っていなかったのは、今でも不思議でならない。

そんな記憶に捉われながらも、足は帰巣本能という不可思議な力に操られるように家路についていた。問題の場所に続く角を曲がると、眼を細めてメジロを探した。メジロは小さな鳥だ。まだ50メートルほど離れているから見えなくても不思議ではない。ゆっくりと歩みを進めた。迂回する別の道もあったのに、なぜこの道を来てしまったのだろうと自分の軽率を責めながら、まっすぐ目を据え、時々例の場所にちらりと視線を投げながら、気づけば次の曲がり角に着いていた。思わず振り返る。振り返りながら早くも後悔したが、そこには何もなかった。

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