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【読書】風よ あらしよ

村山由佳の『風よ  あらしよ』651ページ、読了しました。

noteの読書感想でも課題図書になっており、stand.fmでもおすすめ図書の一冊として紹介したため、読んでみなくては!と思い、購入、読了いたしました。

 印象としては、「読後直後と時間が経ってからの後味が違う」という一種独特な感じです。

 書評や帯では、熱烈に推薦されている本作ですが、どうしても「素直におすすめする!」という気持ちになれなかったのはどうしてなのだろう。このnoteを書きながら、解明していきたいと思います。どうぞお付き合いください。

ーーーここからネタバレーーーー

 大正時代のアナキスト、大杉栄とそのパートナーである伊藤野枝が、公安に捉えられ殺された甘粕事件。教科書でもあまり触れられていない事件ではあるが、これまで多くの作家によってセンセーショナルな事件として描かれてきた。特に伊藤野枝については、波瀾万丈すぎる一生を送った女性だ。これまでも、多くの文学作品や映画でも取り上げられ、瀬戸内寂聴による伊藤野枝論は、広く知られている。最近だと、『村に火をつけ、白痴になれー伊藤野江伝』(栗原康著)で再注目されるようになった。ウィキぺディアよると、伊藤野枝は、日本の婦人解放運動家、無政府主義者、作家、翻訳家、編集者という肩書きがつけられている。でも、人々が彼女に興味を持つのは、28歳の短い生涯の中で、3度の結婚をし、7人の子をもうけたという事実だろう。

 村山由佳もまた、波乱万丈な一生を駆け抜けた野枝に対して、シンパシーを感じ、その物語を書こうと決心した、と語っている。確かに、「強い女」としての野枝は、情熱的で、魅力的で、破天荒で、誰しもその真っ直ぐな生き方に惹き付けられる。私も、読後直後は、「スゴい人がいたものだ」と素直に感動したが、時間が経つにつれ、そして、野枝という人間の人となりを他の著作からも知るにつれ、「モヤッとした違和感」を感じるようになった。

 彼女の自己主張の強さ、自分の思いのままに生きる強さは、いったいどこから来ているのか。自分の能力の高さを誇示し、この人こそ、とターゲットを決めたら、とことん自分の能力を売り込み続ける。女性解放のために戦ってきたという彼女だが、最後に上り詰めた地位は、どれも「男」の能力や地位を踏み台にしたものではなかったのか。

 高等教育を受けた後、郷里で決まっていた結婚を9日で反古にし、恩師である辻の元へ転がり込む。このあと、辻は教職を捨て、野枝との結婚生活を送ることになる。辻の力もあり、野枝は平塚らいてうが主催する青鞜社に加わり、1915年には平塚から青鞜の編集を奪い取ることになる。同時期に、長男、次男を出産。出産するものの、子育てや家庭よりも、創作活動、社会運動に没頭していく。同時に、夫の辻に対しても、不満を募らせていく。

 夫がありながらも、アナキズム運動にのめり込み、そのアイコンである大杉栄と知り合い、同棲を始める。「自由恋愛」を提唱する大杉は、内縁の妻、愛人、そして野枝と3人の女性と関係を持つようになる。野枝と辻も、離婚に至るまでの間、重婚のような状態を続けるのだ。

 最終的に、野枝は辻と離婚し、子どもたちは辻家が引き取った。大杉は愛人の市子に刺される。(日陰茶屋事件)その後、ようやく大杉は、妻と離別し、市子は入獄。野枝との結婚生活を始めるが、世の中は彼らを責め続けた。

 その後、野枝は、大杉と行動をともにし、貧乏と監視の日々を続けることになる。大杉と野江は、お互いの欲情のままに、自分たちの著作同様に、赤ん坊を次々と産み落とすのだ。

 1923年の関東大震災から16日後、大杉と大杉の甥とともに、野江は憲兵に連行され、3人とも扼殺された。

 生まれたばかりの子のために張る乳と血のにおい。最期の場面で、一瞬彼女の目の前に浮かんだ子どもたちの面影。

 でも、最後に彼女が望んだのは、愛する大杉とともに在ることだった。

 彼女は、闘志であり、女でありつづけた。

 妻であること、母であることを、最期まで拒み続けた。

 3人の夫、7人の子があっても、彼女は最期まで「ひとり」だったのではないか。

 「かかしゃん、うちは・・・うちらはね。どうせ、畳の上では

  死なれんとよ」

 母のムメに語った一言が、私には忘れられない。この時、野枝は、「普通の人生、普通の最期を迎えられない、迎えない」ということを決意したのだ。

 ーーーネタバレ ここまでーーー

 「母」となっても、「女」を捨てられず、「女」として生きたとき、その「母」を持った「子」の苦労があるはずだ。野枝の「子ども」として生まれた7人の子どもたちは、親を選んで生まれてきたわけではない。社会を騒がせた恋愛の後、その思想を貫くことで命を落とした母親の「子」であることは、逃れられない呪縛のようなものである。「伊藤野枝の子ども」というだけで、色眼鏡で見られたり、自分の人生が思い通りにいかないことばかりだったのかもしれない。4女の伊藤ルイは、自身の人生をドキュメンタリー映画『ルイズ その旅立ち」で公表したが、それは、ルイ氏が市民活動家として生きていく決意をしたから実現したことであった。

 野枝は活動家として「自分の生き方」を貫いた強い女性だった。でも、村山由佳の描く「野枝像」に私は「シンパシー」を感じることは出来なかった。彼女の目指した女性が自立した社会を目指すことに「エンパシー」を感じることは出来ても、彼女の生き方に、私はどうしても「シンパシー」(共感)することができなかったのだ。

 それは、私の価値観が古いからなのか。「良妻賢母」であり、さらに「キャリア女性」として完璧でならねばならぬことを求める社会に、息苦しさを感じているのは、私だけではないはずだ。でも、「自分」というものを突き詰め、「母であること」「妻であること」をかなぐり捨てた伊藤野枝の生き方が、私にとって、諸手を上げて絶賛できるものではないのだ。「自分」を押し通すことで、犠牲になるものがあまりにもたくさんある。だからこそ、踏みとどまれるのだ。私が読後に感じた「違和感」というのは、そこから来ていることに、ようやく気がつくことが出来た。

 「自由恋愛」の果てに待つのは、「幸福」か「孤独」か。

 野江が 私たちに遺したものは 何だったのか。明治、大正を駆け抜けた伊藤野枝が、歴史の中でどんな役割を果たしたのか。令和のこの時代に、女性として生きることについて、改めて考えるきっかけを与えてくれる一冊であることは、間違いない。




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