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【本】『関心領域』の後、『夜と霧』を読んでほしい

お久しぶりです。
司書の 那珂です。

だいぶ前に、『関心領域』について記事を書きました。

読後の、あのもやもやとした嫌な感じというか、
映画をみた方も、同じような思いを持っているのではないでしょうか。

アウシュビッツ収容所からの生還者として
あまりにも有名な精神科医、ヴィクトール・E・フランクルが遺した
名著『夜と霧』

初版は1947年、日本語版は1956年に出版されています。
その後、1977年に、フランクルは改訂版を出版しました。
今回読んだのは、この1977年版をもとにした、池田香代子訳の新版になります。

ちなみにこちらは、霜山徳爾訳のものです。
(写真や解説などが多く、資料が多い)


今まで、こんな有名な本を、なぜ読んでこなかったのか
自分でも不思議なのですが、
今回、学校図書館にあったものをお借りし、読了しました。



『関心領域』は、支配する側の人間を描いた小説であったのに対し、
『夜と霧』は、被支配者側、収容所の中にいる人間の「体験」したことが
書かれています。

『関心領域』では、人間の醜さや愚かさ、人間が、人間らしさを失っていく過程が描かれているのに対し、
『夜と霧』では、
「人間としての尊厳」や「人間としての生きる意味」を最後まで保ち続けた
人間の気高い姿が描かれています。

大きな罪を犯しながらも、その現実から目を背け、
真実を知ろうともせず、精神を病み、処刑されていった支配者側の人間たち。

理不尽な理由で捉えられ、すべてを奪われ、生き死にの権利までも奪われたにも関わらず、人間の本質を見抜き、「人間らしさ」を最後まで失わずにいた被支配者の人々。

収容所を転々としながら、自分の心身を冷静に分析し、周りの人々の尊厳を大切にしながら、医師としての責務を務めたフランクルは、自分の目から見た「収容所」の内情を包み隠さず記録していきます。

第2段階 収容所生活のなかに、
「医師、魂を教導する」というところがありますが、
その語りは、今でも、私たちの胸を打つのです。

暗闇の中で、生きる希望を失いそうになっている同胞にむかって
フランクルは心を込めて、説くのです。

未来について、愛について、過去について、生きる意味について、
そして、犠牲について。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった
「人間」を知った。
では、この人間とは、なにものか。
人間とは、人間とは何かをつねに決定する存在だ。
人間とは、ガス室を発明した存在だ。
しかし同時に、ガス室に入っても毅然として
祈りの言葉を口にする存在でもあるのだ。

『夜と霧』P145

そのあと、収容所から別の場所へトラックで移送された人々は殺されてしまいますが、
その場に残ったフランクルと数人は、連合軍によって、そこから救い出されます。

収容所から出た後、収容されていた人々にどのような精神的な影響が残ったのかについて、フランクルは調査を続け、その強烈なトラウマを乗り越えさせるのが私の使命なのだと著書の最後で述べています。

1977年の新版を私は読んだのですが、1947年版にはなかった文言が付け足されているそうです。
旧版には「ユダヤ」という言葉が一度も使われていません。
が、新版では、「ユダヤ人被収容者たち」と名指しして、使われているのです。

1948年「イスラエル建国」と当時に勃発した第1次中東戦争が、この言葉を入れるきっかけになったと、翻訳者の池田さんは指摘しています。

 受難の民は、度を越して攻撃的になることがあるという。
それを地で行くのが、21世紀初頭のイスラエルであるような気がしてならない。フランクルの世代が、断ち切ろうとして果たせなかった悪の連鎖に
終わりをもたらす叡智が、今、私たちに求められている。そこに、この地球の生命の存続は懸っている。

『夜と霧』訳者あとがき P169

このあとがきが書かれたのは、2002年です。
まるで、今の世界情勢を予言しているかのような内容に、私は驚きを隠せませんでした。

私たちの「社会」は、今、どこへ向かおうとしているのか。
私たちの「世界」は、歴史を逆流しようとしているのか。

『関心領域』によって与えられた
「考え続けなければならない課題」に対する
「答え」のようなものが、
『夜と霧』の中にあると、私は信じています。

先行きが見えない、真っ暗な世界で、
私たちの道を照らすのは、
先人が命を懸けて紡いだ、一冊の本なのかもしれません。


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