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day295 一緒にいることの意味を考える。

今日は久しぶりの登山。地元の低山、鞍掛山へ相方さんと登ってきた。

頂上からは岩手山が望めた

7月末に旅をドロップアウトし、療養生活を送っていた8月。やっと体調が回復したものの、運動不足は否めない。
昨年は1時間半で登った山を、今年はゆっくり2時間かけて登ったのだった。

頂上にて。被写体遠すぎるやろ。笑

相変わらず相方さんは、登山どうだった?と聞くと『うん、楽しかった』の返事しか返ってこない。帰り道の車窓から馬が見えたときなんて、馬がいるね、と言ったら『2頭、黒と茶色のがいるね』と。
これだけ見ていると、もはや幼稚園児との会話である。でもそれが、この人の脳内の性質なのだから仕方ないのだろう。

相方さんに、引き寄せの法則の本を貸していたのが戻ってきた。本どうだった?と聞くと『うーん、こういうのは受け入れられない』という返事。
ははは、これを受け入れられないのであれば、わたしのことも受け入れられないと言っているのと同じだ。そしてこの人は、顕在意識のみで生きようとしているということ。残念なくらいに、相容れない。

何故わたしたちは一緒にいるのだろうか?と疑問に思うことばかりだ。互いに相容れないことがたくさんあるというのに。

相方さんに質問した。
(わたしを含む)すべての人に興味関心がないのに、何故わたしと一緒にいるの?
でも、その答えは返ってこなかった。

HSPあるあるなのかもしれないけれど、ものごとにはすべて意味があると思っていて、その意味を常に考えているところがある。
対して相方さんは、意味なんて存在しない、ただそこにそれがあるだけで、好きも嫌いも興味関心もない、という人だ。

ひとりになり、色々と小一時間ほど脳内会議をしてみた。一緒にいる意味なくね?とか、それでも一緒にいる意味とは?とか。
そうして出した結論は、わたしはわたしのまんまで、いち人間同士の関係性で相方さんに接するのみ。あなたはそういう人で、わたしはこういう人なの、と。

だって『(わたしに)会いたいと思ったことが一度もない』とか『(わたしを含む)すべての人に興味関心がない』とか『引き寄せの法則は受け入れられない』とか言われて、結構普通にズタズタに傷ついている。(他にも今日だけでだいぶ傷を負った)

そう、わたしは傷ついているのだ。
それを『だってあの人ASDみたいだから仕方ない』と受け入れているのは、わたしばかりがつらいだけだ。

あぁ、これがいわゆるカサンドラというやつなのかもしれない。相手を理解しようとして、受け入れようとして、自分が傷ついているということを見て見ぬ振りをする。

つらかったんだな。自分が傷ついているのを認めたくなかったんだな。理解者であろうとして、ボロボロになってしまっていた。

もう、これ以上傷つかなくてもいい。わたしはわたしを守ることが大切だ。

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