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幼い頃のわずかな記憶(小学生で頑張った私)

3年生の時に2人目の妹が生まれた。
もちろん可愛いに決まってる。
弟とは3歳違いだったけど、妹とは7歳、9歳と離れていたから、私にとってはリアルな可愛いお人形さんみたいだった。

リカちゃん人形には全く興味がなかった

当然のように、あやしたり、おむつを替えたり、ミルクを作って飲ませたりしていた。
紙おむつなんてない時代だから、布おむつを2枚使って、それぞれを縦と三角に折り、重ねておむつカバーの上に乗せていた。

いわゆる三角おむつというものだ
今は推奨されていない 
股関節脱臼につながると言われている

今思い起こすと、とても小さなお母さんの私だった。
熱々のミルクを作って水道の蛇口の水で適温になるまで下げるんだけど、ミルク好きの私が味見と称して全部飲んでしまって、慌てて作り直したこともあった。
当然妹はお腹を空かせて泣いていた。ごめんね。

赤ちゃんは泣くのも仕事
肺が強くなるって聞いたよ

ある日、幼い妹2人を並べて髪の毛を切ってあげたんだけど、左右が揃わなくて何度も切っているうちに、すごく短くなってしまった。
その事は今でも「嫌だった」と2人から言われる。ホントごめん。

今ならイケてる髪型なのに

そう言えば、ピアノ教室は先生の自宅だった。4歳だった妹も一緒に通い出したけど私のレッスン中に他の子達と遊んでいた妹は、自分の番になると居眠りをしてしまい、結局いつも何も弾かずに帰っていたな。

それでも先生はとても優しかった

そんな私が何をきっかけに器楽クラブに入ったのかは覚えていない。母の勧めだったのかもしれない。
県の大会では最優秀賞がとれず、いつも優秀賞止まり。
いやいや優秀賞でもすごいと思う!
私はピアノしか弾けないけどピアノには同級生のすごく上手な男の子が決まっていた。

男子のピアノって素敵

担当はエレクトーンになった。
2人1組で私は右手、もう1人は左手と足鍵盤。
誰と組んでいたのかも覚えてない。
下手な私は発表会に向けて家でメチャクチャ練習した。みんなの音が一つになるためにって。最優秀賞に向けてのみんなの思いが伝わってきたから。

先生が一番熱かったけどね

毎年夏休みには学校での合宿があって、朝から暗くなるまで学校の講堂でずっと練習していた。小学生なのにすごい事していたな。
お母さん達が集まって夕食のカレーを作ってくれていて、そういうのはなんだかくすぐったいようで嬉しかった。

暗い校舎での探検ごっこは怖かった

そしてミシンの授業以外では入れない畳敷の家庭科室でみんなで寝るのがとても楽しみだった。

結局、私がいる間は優秀賞しかとれなかったけど、木管楽器がない私達が優秀賞ってすごいと思ってた。
最優秀賞の学校は木管楽器が入っていて、とにかく迫力があった。

演奏は本当に好きだったから練習を辛いって思ったことはなかったなあ。音を通して心を一つにすることの難しさや清々しさ、達成感、協調性など多くの事を学んだ3年間だった



後、小学校時代で忘れられないのは、怖かった先生がいた事、クラスでいじめがあった事かな。

勉強に関してはほとんど記憶がない。
怖いね。記憶から消してるのかもね。
宿題はしていたと思うし、誰かに勉強を教えてもらいたいと思っていたような気もする。

でも塾に行きたいと言ってはいけないって思っていたような気もする。
我が家にそんな余裕がないことは子どもでも何となく感じるからね。

子どもって空気を読む能力すごいよ

その後、16歳下に弟も生まれたから私は5人兄弟の長女になった。
私が19歳、弟が3歳の時「若いお母さんね」ってよく声をかけられた。
もういちいち説明するのも面倒で、笑顔で「はい頑張ります」って答えていたのを思い出す。


幼い頃のわずかな記憶の話はひとまず、これで終わりにします。

ここまで読んで下さりありがとうございました❣️


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