『エヴァンゲリオン:序/破/Q』をまとめて観て...<序編>

 映画シン・エヴァンゲリオンの盛り上がりが気になっている。友人に聞くとシン・エヴァンゲリオンを楽しむためにはテレビシリーズは観なくても大丈夫だが、映画版の<序/破/Q>は観た方がいいと言われて一気に観る事にした。今回はその感想を書こうと思う。

 序は冒頭から使徒が街で暴れており、主人公である中学生の碇シンジが葛城ミサトに迎えられネルフの基地に向かうところから始まる。ここではミサトが誰であるか?自分はどこに向かうのか?何をさせられるのか?をシンジは知らない。そして基地に着くとネルフで指揮をとる父親の碇ゲンドウに「エヴァンゲリオンに乗って使徒と戦う事」を指示される。
 唐突な始まりだった。「なぜ僕が乗るのか?」、「なぜ戦わないといけないのか?」、「僕にはできない…」碇シンジの戸惑いと共に物語の<世界観>を観客は理解し始める。シンジにはほぼ選択肢はなかった。使徒と戦うしかないが、使徒が何者か?も多くは語られない。戦う意味も分からずに戦いに出されるシンジ。戦いの最中でもずっと「なんで僕が戦わないといけないんだ」「僕に出来っこない」と弱音を吐き続ける。
 理由なく使命を課せられていく中学生のシンジを観て、子供から大人になる事に似てると思った。自分の中学時代を思い出した。

 僕は中学受験をして第一志望の私立に落ちたが第二志望の国立に入った。勉強と部活で常に忙しくしていた小中学生時代だった。当時、燃え尽き症候群もあったと思う。中学の時に感じた「なんのために勉強しているのか?」という疑問。いい大学に行き、いい仕事に就くため、立派な大人になるため。と、大人(親)が考えたレールの上を走る事への苦しみは次第に大きくなっていた。しかし当時はレールをはみ出す選択肢は思いつかなかったし、違和感を感じながらも課せられたレールの上を走るしかなかった。陰鬱になり、同じように繰り返す毎日に「自分はなんのために生きているのか?」と考え始める様になった。
 映画を観て、自分の置かれた状況についての理解、心の成長が追いついていなかったあの頃をいろいろと思い出した。僕が大人が決めたレールを外れる様になるのはずっと後になってからだが、これはまたの機会に書きたいと思う。

 シンジも始めは自分の置かれた状況を受け入れられないが、彼を公私ともに支えるのミサトや、同じエヴァンゲリオンに乗る同世代の綾波レイの存在により、シンジは自分の使命を徐々に受け入れていく。
 序はエヴァンゲリオンの<世界観>を知る入門編である。
 ググるとテレビシリーズの内容を踏襲しているらしいが「リメイク」ではなく「再構築」という位置付けらしい。映画でこの世界観は十分伝わるが、微妙に設定が変わっていたり、映画で語られないところが詳しく描かれているかもしれない。テレビシリーズにも逆に観て観たいと興味が湧いた。
 しかし映画は映画ならではの省略が心地良いし、ザクザク物語が進んでいく映画は好きだ。シンプルゆえに観客はいろいろ想像が出来る楽しみがある。また破とQについても感想を書きたいと思う。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
 

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