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子育てだけでは見えない広い意味の「教育」

先日、オランダ人のママと話をしていた時のことです。
娘たちの子育てや教育の話になりました。

「教師」は専門職であるという認識

まず最初に、先日、フィンランドで高校教師をされている方と話をした時に気づいたのは、北欧ではまだまだ「教師」は聖職者だという認識が残っていることでした。

フィンランドでは、
「学問について深く知っていること」

「その知識や経験を誰かに教えること」

は、「異なる資質」として考えられるそうです。

つまり、
「知っている」と「教える」は別の能力である。ということ。

その考え方のもと、フィンランドで教師になるには大学院を卒業しなければいけません。学問的に博学であることと、それを教えるという行為は別であるため、両方について専門的に学ばなければいけない。という考え方です。

教師は変化の中で教育を見つめる人

そんな中、オランダのママと話をしていた時に、今娘たちが経験している教育についての話題になり、
「あなたが小さい時はこんなことはあった?」
という質問を投げかけてみました。

すると、多くのことについて、
「私が小学生の時はそういうのはなかったわ」
という回答をもらったのでした。

しかし同時に、
「時代が前に進んでいるから、私が小さい時の教育とあの子たちの教育は違って当然。教師も教育のプロとしてアップデートを繰り返しているから」
と言ったのです。

「だから、学校の教育にとやかく言う必要はないのよ。だって、親は自分の子どもしか育てていないし、教育のことだって自分の子どもを通して見ているでしょう。教師は保護者以上に色んな子どもたちを見ているし、私たちが知らないような教育の情報にも精通しているだろうから」

彼女は教育に従事している人でもなく、一般企業に勤めている人なのですが、そんな人がまるでフィンランドにおいてそうであるように、
「教師とは教育のプロ」だと理解しているところに感銘を受けたのでした。

ただ、私の知るオランダ人の保護者がそんな風にして、
「教師」=「教育のプロ」
と定義づける言葉を聞くのは、これが初めてではありません。

前には、
「学校の教育について保護者が学校に口出し過ぎるのはよくない」
と、他の保護者が話しているのをこれまで何度か聞いたことがありました。

それは「学校」という場所や組織を信頼すべきだ。
というアイデアからなのかもしれません。

オランダの教師は「教師になるための学校」に通って教師になる

私の周囲で子育てをする保護者がそんな風に言うのは、
オランダの教師たちが「教員養成学校」に通い、教師になっている。
という背景があるからかもしれません。

これは、簡単に言うと、オランダでは教師になるためには、
「教員になるための専門学校」に行かなければいけない。ということです。(四年生大学とは異なります)

つまりそれは、いわゆる一般的な四年生大学の単位に「教職単位」がおまけとしてつき、
その単位を持って教員免許状を取得し、教員採用試験に合格すれば教師と働ける。ということではなく。

最初から教師を志して教員養成学校に入学し、そこで教育のことについてしっかり学んだ上で「教育のプロ」として社会に輩出されるということです。

家庭教育と学校教育の役割は異なる

また、私の知る保護者たちの言葉を聞いていて、彼ら自身が教師を「教育のプロ」と定義づけていることで、
「家庭教育」と「学校教育」を混同して「教育」だと定義づけていないんだな、
ということを強く感じます。

つまり、家庭には家庭教育としての「教育の視点」しかない、と心得ている。ということです。

よく考えてみれば、日本には多くの「教育本」が存在します。
「頭の良い子を育てる方法」とか、
「非認知能力を育てる子育て」とか、
「子どもをハーバードへ合格させるための教育」など。

そういった風潮の中で、多くの保護者が「教育本」を読み、
「学校教育」と「家庭教育」を混同して「教育」としているような気がします。

つまり、教育本を読むことで学校教育までも理解した気になっている。
そんな風潮を感じるのです。

家庭教育だけを経験し「教育」として語る危険性

自分自身の人生や、子育てを通して「教育」を経験する。
それは決して間違いではないと思うのですが、前述したとおり、ホームスクーリングがないオランダにおいて、
家庭教育が完全に学校教育に代わることはない。と、オランダの保護者たちは理解しているように思う時があります。また、私自身もそう感じています。

しかし、残念ながら日本においては、保護者自身が家庭教育を通して学び得たものを「教育」とし、その知識や子育てという経験を通して、日常的に学校の教育活動に口出すことも多くなってきています。
また、学校現場はそういった発言に迎合することで、
「保護者が求める教育的ニーズに応えている」
と勘違いしているような気もします。

決して家庭教育が「教育」と呼べない訳ではないのですが、
自分の子どもを通して経験する「子育て」は「学校教育」とは違う性質を持ちます。

それを通して経験したことを「教育の全て」だとすることはあまりにも軽率な判断である。
そんな風に言えないくらい日本の学校現場は、社会的影響から聖職者としての地位を失い始めていると感じています。

教育は家庭教育と学校教育を両輪として走る

私の持論としては、
教育とは家庭教育学校教育の両輪で成り立ちます。
よって「教育」を成し遂げるためにどちらも同じくらい大切です。

ただ、どちらの教育もお互いの役割を尊重しなければ、
「教育」という車は安定して長く走れない。

そんな風に思っています。

オランダで教師として働いている、あるママは、
「最近の風潮としては、保護者が学校に今までより多くの要求をしてくるようになっているわ。でも、プロを信じて任せる力も必要だと思う」
と言っていました。

一人の子どもを育てることは、多くの家庭で行われていることですが、
複数人の子どもを一度に指導することは限られた人々が担う仕事です。

そこには難しさもあれば、楽しさもあります。
そして、その環境を「子どもたちにとっての小さな社会」として、アップデートされたアプローチを行うことは、教師にしかできません。

だからこそ、互いの「領域」に意見し過ぎることは善とは言えない。と私は思っています。

税金で働いていたとしても、教師へのリスペクトを

「誰の税金で給料をもらっていると思っているんだ」

そんな風に学校へ苦情をもらす保護者も少なくありません。
こういった発言は、警察官や消防士などにも浴びせられます。

しかし、税金で働いているからといって、支払っている方が偉いという風にはなりません。
それを言うなら、教師自身も税金を納めています。

「私には出来ない仕事をしてくれている」

忘れてはいけないのは「その道のプロ」だと認識する必要性です。
そしてまた、教育者は「プロである」という自覚を持って、生徒やその保護者に熱意と専門性を伝えなければいけません。

そこには「プロである」という強い自覚とともに、その専門性を日々アップデートしなければいけない、という謙虚さも必要です。

そうは言っても、オランダは小学校の先生不足が深刻であり、
初等教育の担い手を多く育てていかなければいけない課題があります。

それでも「教師は教育のプロである」として、家庭教育では補えない視点を持った人だという理解がさらに広がれば、教師の地位も維持され続けるのではないか、と考えています。

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