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「小学校はコミュニケーションを学ぶところ」

こんにちは!先日、オランダにある日本人学校に勤務されている先生方と一緒に食事をする機会があり、ホームパーティーに招待していただきました。その時に、オランダで移民として生きる、いわゆる「2世」の方とお話しをしました。

彼の名前は"Thais(仮名)"、オランダで生まれ、オランダの現地校に通い、今では人工甘味料の研究者として企業に勤めています。彼自身はいわゆる"移民二世"で、保護者はトルコ出身です。そんな彼の生い立ちに耳を傾けながら、彼がオランダの教育を受けてきて感じることなどについて色々話を聞くことができました。

趣味で始めた日本語が…

とても流暢な日本語を話すThaisは、ゲームや漫画を通してほとんど趣味として日本語をマスターしたそうです。日本語学科を持つオランダの大学を卒業していると聞いた時は、その流暢すぎる日本語を聞いて、当然日本語学科を卒業したのだろうと思いきや「いやいや、僕は完全な理系で、全く別の学科で卒業したんだよ」と教えてくれました。

仕事の関係で大阪に住んだことがある彼は、その時にたくさん日本語を話したことで趣味で始めた日本語をここまで発達させることができたそうです。「個人的に、トルコ語と日本語は文法もよく似ていると思ってるよ。語彙さえカバーできれば、日本人にとってトルコ語を学ぶことはそこまで難しくないと思う」と教えてくれましたが、本当か?!笑

こうやって海外で日本や日本語に興味を持ってくれる人を見つけると、とても嬉しい気持ちになります。それはきっと、オランダの人々にとって、私たち日本人がオランダ語を学んでいると聞いた時の喜びに近いのだろうといつも思うのです。

移民二世として受けたオランダの教育

「自分が小学校に通っていた時、移民だからといって成績が良かったにも関わらず、わざと低い成績をつけられたことがあってね。母親がブチギレて学校に"そんなはずはない!"と言いに行っていたよ。笑」

こんなエピソードを聞くのはこれが初めてではありません。この国は九州程度の国土面積に対して、人口約1800万人の国。EUの中でも移民を多く受け入れ、「多様性を受け入れながら前に進もうとする国」です。しかし、そんな国において差別が全くない訳でもありません。移民の受け入れを「脅威」に感じたり、よく思っていない人たちがいることも事実でしょう。誰かを見つめる時、どこか決めつけたフィルターを意識的に…または無意識的につけてしまう人たちが全くいない訳ではありません。一方で、こたえのない問いに勇ましく進み続ける姿勢が、オランダらしいと言える部分でもあると思います。

「学校はコミュニケーションを学ぶところ」

現地校で授業をしている私にとって、授業づくりは試行錯誤の連続です。特に、私は「英語教員」として、オランダ語を介さずに子どもたちに英語を教える立場なので、いわゆる日本の子どもたちがオールイングリッシュで英語の授業を受けているのと似たような状況で授業を行っているところです。

オランダの子どもたちの育ち方は、日本の子どもたちのそれとは大きく異なります。彼らの在り方を「文化的なもの」としてどこまで捉えるのか、4歳〜7歳程度の子どもたちに対して、私のボーダーラインはどこに設定するのか…試行錯誤の日々が続きます。

Thaisに授業のことについて相談すると、あっけなく一言。「小学校はおおよそコミュニケーションを学ぶ場だよ。何かを教えなくては…というプレッシャーを過度に感じなくて良い」その言葉を聞いた時、自分の中で何かがクリアになりました。どこかでそう思ってはいたけれど「教えること」に揺り戻される自分がいたのです。

多様性、リスペクト、一緒に生きること

「何かを言った時、クラスメイトが何を感じるか、どんな言い方をしたら良いか、自分とはいろんな意味で"ちがう"人たちがいることを知りながら、自分とは違う人たちとどうやって一緒に生きていくかを学んでいるんだよ」

もちろん教育…とりわけ小学校の役割は「それだけ」ではありません。でも、初等教育期間に時間をかけて礎のようなものを作ること…それを意識している教職員はとても多いような気がします。算数ができること、国語ができることが大切ではない訳ではありません。でも、それを学ぶ時、同時にクラスメイトが提示する別のやり方や、物事に対する意見や考え方も尊重できるようになること…まさにそれを練習しているのです。

そしてそれは、考え方から、性的指向、宗教、価値観、政治…年齢とともにあらゆる外側へと派生していきます。でも、その根本にあるのは、小学校の教室という「異なる人たち」が過ごす教室で「同じ人間だけれどちがう」ということを知り、受け入れ、協働していく時に育まれた力がどうあるか…そういうことなのではないかと改めて感じました。

「家庭は子どもに"discipline(規律)"を教えるところ」

「学校はコミュニケーションだけど、家はdecipline(規律)を教えるところって感じだよオランダは」

つまり、家庭とは学校で教えられない部分の規律を教えるところ。家庭には慣れ親しんだ家族がいて、決して教室ほど多様性に富んだ場所とは言えません。家庭の役割とはdecipline、つまり規律を教えるところだと捉えている人たちが多いのではないかと言うThais。

確かに、オランダの小学校に通う子どもたちの保護者は、学校の役割と保護者の役割の間に線引きをしているように感じます。例えば、一般的な学校の先生に金八先生のような役割を過度に期待するようなことはほとんどないのかもしれません。つまり「学校と家庭とで教えられることはちがう」と理解しているとも言えるような気がします。

私の周囲の保護者たちは口を揃えて言います。
「子どもが小さいうちの問題は小さいけれど、大きくなった時の問題は大きくなる」と。移住したての頃、その意味をなんとなく理解していましたが、今では彼らが本当に意味することが何なのかがわかります。それはつまり、「小さい時に子どもに伝えること、教えられることに時間をかけてやっておかないと、大きくなった時にそれは手遅れになるかもしれない」ということなのです。それはつまり、小さい頃から家庭としての役割を果たさずにいると、後が大変やで〜ということです。そして、その役割が"decipline"つまり、子どもたちに「規律」を教えることなのではないかと思いました。

子どもたちが一緒に過ごす教室をつくるために

Thaisと話をしてから、自分自身、クラスをもう一度どんな風につくろうか…ということについて考えました。彼の話を聞いたおかげでモヤモヤしていた空が明るくなったような気にもなりました。

Thaisは自分自身の幼少期を振り返っても「ゲーム、6時間とかしてたよ」と笑って話したり、「先生の話なんて全然聞いてなかった」なんて言いますが、それでも「小学校はコミュニケーションを学ぶ場所だ」と言えるということは、彼の中に「小学校では何を学んだか」のコアな部分は学業成績に関することよりも「コミュニケーション」だったのだろうと思いました。

大学を卒業し、今では人工甘味料の研究をしている彼が小学校時代を振り返った時、「勉強ばっかりしていたよ」と答えていないところが、とてもオランダらしいとも感じました。さらに言えば「学校」という場所がますます不思議で奥深い場所だとも感じました。

異国での授業づくり、悩みは尽きませんが、「学校はコミュニケーションを学ぶところ」だという言葉を受け止め、その根本的な部分をレイヤーにした授業づくりを改めて考えていこうと思えた1日でした。




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