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"攻撃性"を持たせない子育てと学校教育

こんにちは!今日は晴れて、いい気持ちの1日が続いています。昨日、娘は学校の友だちのお家で遊ばせてもらい、夕食までご馳走になってきました。昨日の夜ご飯は「チヂミ」と「お米」だったそうなのですが(オランダ家庭にしては何とも珍しい!)、迎えに行くとママが「うちの子たちは本当に食べないんだけど、あの子は美味しい!とおかわりまでしてくれてたわ!…もう大好き!」と言われました。笑

ご飯を「美味しい!」と食べてくれる子どもを大人が好むのは万国共通かもしれません。笑

さて、前回の記事に引き続き、今回も子どもの感情についてです。今日は子ども同士の「戦いごっこ」について書きたいと思います。


「戦いごっこ」させてますか?

最近読んだデンマークにお住まいの方が書かれた本に、「デンマークの子どもたちは戦いごっこをしない」というのがありました。これ、私もオランダに移住して公共施設を訪れたり、生活をしている中で感じてきたことです。

子どもたちを学校やそれ以外の場所で見ていると、「相手の身体に(攻撃性を持って)触れること、相手を傷けるような行為をすること」はタブーとして理解されていることが見えてきます。多くの場合、子どもたちはその(ふざけた)攻撃性をエスカレートさせてしまい、喧嘩に発展させたりする訳ですが、その火種を"小さいままに消す"ということに対して、保護者や教育者がとても敏感だと感じます(もちろん家庭に差はありますが)。

これはつまり、相手を傷つける(ことに及びそうな)行為は"遊び"であったとしてもあってはならないという感覚なのかなと思います。

「戦うフリ」でもダメ?

私が一度とても驚いたのは、友人(オランダ人)の子ども(男の子)が道で木の枝を拾い、それを剣のようにして私と戦いごっこをしようとした時でした。彼女はその枝をサッと取り上げ「人に向けてそういうことはしないのよ。危ないからね」と、きっぱり捨てるよう指示したのです。たとえ「遊び」だったとしても、相手を傷つけるような方法の遊びは認められない。その線引きを見た気がしました。

また、日本で言うところの「ちゃんばら」や「戦いごっこ」を伴うような子どもの向けのアニメはこちらにほとんどないと聞きます。日本のアンパンマンのように「最後は相手をやっつけて終了!」のような「暴力で解決系アニメ」もそういった教訓を教えることになってしまうため、ほとんどないそうです。これは結構、子どもの発達においては大切なんじゃないかななんて思います。

攻撃的なアニメーションが増えてきている

あるママは「最近はインターネットを通して、海外から人を攻撃したりするようなアニメが簡単に手に入ってしまうからね〜」と言っていました。インターネットが発達することで、情報は手に入れやすくなり便利にはなりましたが、もちろんその弊害もあります。

予め持っている文化の中で、家庭教育や学校教育で出来るだけ攻撃的で刺激的なものを避けるようにしていたとしても、いずれはどこからともなくティーンエイジャーなどの目に入ってくるでしょう。

そういった意味では、子どもたちが幼いうちは保護者のコントロールである程度は避けられていても、年齢を重ねるにつれてフィルターをかけられなくなり情報が入ってくることで、子どもが攻撃性を増していくこともあるかもしれません(個人的にはこういうところで性教育や市民教育が一部の大きな役割を担うと感じています)。

「行為自体」が問題なのではないということ

さて「戦いごっこ」の話に戻りますが、「戦いごっこ」はダメだとしても、例えば「ボクシング」や「柔道」など、競技として身体的な交わりが不可欠なスポーツなどについてはどうなの?と思われる方もいるかもしれません。

ここで大切なのは「身体的な接触を交わすこと」が問題ではないということかもしれません。オランダは小国ながらスポーツ選手も多く輩出しています。

私が思うに「設定された目的」に応じて身体的な接触があることは問題ないというのがあって、いわゆる枠がない状況で他人の身体に触れたり、他人を傷つけるような行為を行う(ふりをする)というのが問題なのだと感じます。つまり、物事には目的と役割があるという考えかたなのかもしれません。

性教育を例に考えてみると

1つの例で考えてみると、オランダの性教育に関することで「なるほど〜」と思ったことがありました。オランダは世界でも有数の性にオープンな国です。同時にオランダの性教育はとてもオープンで、あっけらかんとしていて、包み隠すことなく全てについて話します(ちなみに性教育は義務化されています)。

さて、皆さんは子どもに「愛し合う人同士のセックス」「ポルノ動画などのセックス」の違いを聞かれたら何と答えるでしょうか?

オランダの性教育の本では、大人がその違いをきちんと子どもに説明できるよう促します。本に書かれていたのは簡単に言うと、

・愛し合う人同士のセックスはとても美しく、自然な行為であること
・ポルノのセックスは、観る人を興奮させるために"作られたもの"であること

ということでした。

つまり、どちらも同じ"セックス"という行為に及んでいますが「目的や役割が違う」ということです。そして、その目的や役割を誤ってしまうと、まったく別のものになってしまうということなのだと理解しました。

つまり「身体的な接触を伴う行為」もまた一般的な場面でするのと、ある枠組みの中でルールに基づいて行うのとでは目的や役割が異なるということなのではないかと思うのです。

感情的になるのは枠組みの中で

ここで言う「感情的」というのは、主に「怒り」を指していますが、枠組みが用意された中で興奮状態になることは、ある意味プレイヤーにとっては必要なこともあるかもしれません。

一方で、前回の記事にも書きましたが、一般的な場面で攻撃的になったり、怒りの感情をあらわにすることはこちらの社会ではあまり喜ばれません。「社会」という場所に枠組みは用意されていないからです。

オランダで暮らす人々の中には、季節を問わず天気が良ければ外を出歩き、音楽が流れれば歌い、踊る人たちもいます。そういった「喜び」や「楽しい」という感情を出すことは社会の中でも歓迎されています(個人的には「悲しみ」は中間地点に位置しているイメージです)。

しかし、やはり「怒り」や「憎しみ」のような感情を公共の場であらわにすることは冷ややかな視線をくらうことになると感じます(コロナ禍では若者が暴動を起こしているようなこともありましたが)。

子どもを穏やかに育てるには

少し話はずれましたが、子育てにおいても学校教育においても、やはり「あそび」という曖昧な枠組みの中で「戦いごっこ」のように人の身体に簡単に触れることをよしとする方針は、子どもたちが心穏やかに生きるために不要なのではないかな?と思ったりします。

こちらの感覚にすっかり慣れてしまった私は、その感覚を持たない保護者が子ども同士が蹴り合ったり、叩き合って力比べをしているのを「子ども同士のあそび」として放置しているのを見ると、とヒヤヒヤします(往々にして怪我や喧嘩になっていくので)。

感情的になることや身体的な接触を持つためには「枠組み」がある、そしてそれがあるということは、同時にそれぞれの行為には役割や目的があるんだということを私自身も子どもに伝えていけたらな。なんてことを思っています。

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