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日本人の医療依存 なぜ8割がワクチンを打った?

感染予防にもならない、未来にどんな副作用(私は副反応の話をしているのでは無い)が出るか分からないワクチンを、生後6ヶ月の赤ちゃんに打つことが許可された。

コロナワクチンに限らず、なぜ日本人はここまで医療に依存しているのだろうか?

勿論、一刻を争う急性の病気や怪我であれば別である。

しかし救急ではない病気が大半を占める中、全ての病気に対して病気を治す場所は病院であり、そこでの医療行為であり、薬であると日本人は考え過ぎているのでは無いか?。

何でもかんでも100%の安全や安心を求めたなら、単なるササクレでも病院で診てもらったほうがいい、という判断になるだろう。

まさかササクレが破傷風に発展、癌に発展、ということが、全くゼロでは無いのなら、ササクレに対する私たちの行動の正解は、ササクレであっても皮膚科に通い最後まで治療することが正確となるのでは無いだろうか?。

それを言い出せば、「肩こり」は全ての病気の前兆と言える。しかし肩こりから酷い頭痛やめまいとなれば病院に行くのは理解出来るが、

肩がこる、というそれだけで、脳卒中の前触れ?と思い込み救急車を呼ぶのは論外である。

しかしその線引きはその人の「常識」と言うものに委ねられている。

その辺りの常識の加減は人により違うのだが、
ネット社会のお陰で、ほんの少しの症状が実は大病の前触れ…という情報に踊らされて、何でもかんでも直ぐに病院!病院!と、病院に行けば良い、というのが今の日本の風潮だ。

そんな記事は実は病院や製薬会社の誘導であり、記事広告である事が多いのに。

私自身は、これまで無かった身体の不調が出たら、余程そこまで苦しく無い場合はしばらく様子を見る。そして、何をすると酷くなり、何をすれば楽になるのか自分なりに色々試してみる。そしてゆっくり休養し、それでも日に日に悪くなる様な病院へ、と考えているが、そのスパンは2週間を一つの区切りで自分を見ている。2週間は必ず様子を見る。

ゆっくりと休養が出来たなら、大抵のものは2週間前後で良くなって行く。そして症状は出たり引いたりしながら半年程かけて消えて行く。50代を過ぎたら身体の不調など、そんなに直ぐに治らない。

こうしたゆっくりとした時間を過ごす事が出来なければ、確かに2、3日のスパンでしか病気を見れない訳だから、不安になり病院に行く人は多いだろう。

そして、それを家族に言おうものなら、家族も忙しいので「病院に行った方がいい」と言う。

誰に聞いても「病院に行ったら?」と言う。

もしそこに、

「仕事や勉強もいいけど、思い切って今全部休んでみたら?一緒にゆっくりしよう。
美味しいもの作ってあげるから。
それで、少し良くなったら温泉にでも行こうよ!。車で連れてってあげるよ!。それでもし全然良くならなかったら病院に行くっていうんでも遅くは無いんじゃ無い??」。

と、家族や恋人に言われたら、

本心、そうしたいのでは無いだろうか?。

急性の病気ではなかったら、2週間程この様に過ごしていたらだいぶ消えてしまう症状は多いだろう。

勿論全ての病気がそうとは限らないが。
もしもだが、その時極々小さなガンがあったとしよう。しかし、全てを休み、ゆっくりして解放され、誰かの思いやりを感じて日々過ごすうちに消えてしまうこともあり得るのではないか?

私にとって早期発見、早期治療とは、ほんの少しの不調の時に、ゆっくりと休んで自分を回復させることを意味している。直ぐに病院へ駆け込むことでは無い。

ガンに限らず、胃炎や腸の不調なども、レントゲンや胃カメラを飲むよりも、こうしたゆっくりとした時間を共に過ごして支えてくれる人が居たなら、病院の殺伐とした中で不安に怯え薬を貰うだけよりも、身体は根本から、つまり精神から回復する事が出来るのでは無いだろうか?。

私個人のことで言えば、その「誰か」すら必要ない。誰でもない「自然」が私を癒してくれる。

しかし現実は、誰もが忙しく、大切な人が不調を訴えても余程でなければその人に付き添うこともせず、話もろくに聞かず、仕事を優先させて放ったらかしで出かけてしまう人ばかりだ。良くてLINEでの生存確認位だろう。
残された体調不良の本人は、1人不安を抱えながら孤独にネットで自分の症状を調べつつ、益々自分で不安を煽り病院へ足を運ぶ。

いざ病院に行けば、「どうしました?」と看護師や医者が聞いてくれる。様々な可能性があるから、と色々検査してくれることは、ある人にとってはそこのスタッフが親切で頼もしく感じるだろう。

そして、あらゆる可能性をカバーする薬を処方され、「飲んでみて良くならなかったらまた来てください」。と言ってくれる。

これで一安心、と、その人は思うだろう。

薬は辛い症状を消してくれるから、病院は病気を治してくれる場所、と、誰もが感じる事だろう。

薬無しなら10日も2週間もかかるところ、薬があれば3日で完治するのだ。しかしそれは、症状を消して楽になってるだけで、身体は動くが本当に治っている訳ではなく、やはり身体の本体は10日以上かけて治しているのだ。

社会とは、人を働かせる場所だから、人をゆっくり休ませたくない。会社は人が休めば損をする。早く治して早く会社に来てほしいのだ。人間は会社にとって言う事を理解する便利な歯車なのだ。しかし、その人がそうやって薬で時短で病気を治していく事を繰り返せば、身体に負担や薬の毒という負債が溜まり、10年後20年後に大きな病気になる事などはお構いなし。

その頃には定年してるか、定年間近。
病気で辞めてくれたら会社は逆に恩の字なのである。要は人材も使い捨て。使えない歯車に用は無い。

こんな殺伐とした日本である。
多くの人が何度もmRNAワクチンを打った理由も分からないでも無い。

しかし海外ではもはやブースターは殆どされてない。

私は、日本人は忙し過ぎて、どんなに大切な人が体調不良になったとしても、これまでもこれからも、自分が寄り添うことよりも、また寄り添ってもらうことよりも、「仕事」に行くことを優先させるのだろうと思う。

日本人は、家族が同じ家に居ても、
もし、自分が病気になったら誰も面倒見てくれない、という孤独の中で多くが生きているのだと思う。

もし病気になっても、誰にも迷惑をかけられない、だから病気は病院で治すもの、と思い込んでいる。

私たちの病気は、病気そのものでは無く、

「仕事」というものが第一優先になってしまい、
「病気でも薬を飲んで働かなくては。」
「病気でも直ぐに治して復帰せねば。」

という、「仕事」というものへの強すぎる忠誠心こそが日本人の精神病なのでは無いかと思う。

ワクチンも同じ理論だ。
コロナになっても健康な誰かが文句を言わず看病してくれる安心な場所があるなら、まずそこまでコロナ自体を恐れないはずだ。

我が家は誰もワクチンを打っておらず、今年の夏に息子が明らかにコロナになったと思われる。
熱が出て関節痛になりその後喉が焼ける様に痛いと訴えていたが(思い切りコロナの症状)、本人の強い意志で何の検査も受けず、勿論病院にも行かず、私の看病だけで治っていった。治るのに10日かかったが、すっかり良くなった。

寧ろ、苦しんでいる時に車で移動させたり病院で座って何時間も待つのは、その方が辛いし病状が悪化するとも思った。そして貰うのはどうせカロナールだけなら、使い回しのものが家にある。

何でも「念の為、念の為」という考えの人には理解不能だろう。

しかし、もしこれが、息子がどこか遠くで一人暮らしをしていたら、まず「病院に行きなさい」と言っていたと思う。

勿論どんなに遠くても息子が病気なら私は駆けつけるが、自分が到着するまでは、誰か他の人に見ていてほしいという意味で、頼めるのは病院しか無い。

つまり病気というのは、ここで「愛」と言う言葉を出す違和感は非常にあるのだが、しかし本来は「愛」ある周りの人によって癒されて行くものである。しかしそれが無い場合、病院に行くという選択しか無い。

因みに、息子を部屋に隔離もせず同じテーブルで食事をして全ていつも通りだったが、家族は誰も感染しなかった。あくまで私の経験からだが、ワクチンに関係なくコロナになる人はなるし、ならない人は何をしてもならないと言える。

日本人の医療依存は、本来こうした家族や友人等からのケアが無いに等しいことにより、健康や病気というトピックスには常に「不安」が根底に存在することが原因と考えられる。

特にコロナ以前の午前中の耳鼻科や眼科の待合室を思い返すと、お年寄りのコミュニティの場になっていたことから考察するに、

「◯◯さん、今日はどうなさいましたか?」

と、名前を呼び心配してくれる人をお年寄り達は潜在的に求めているのだと思って見ていた。

それを思い出すにつけ、

身内がワクチンを打ってしまった、と嘆く人が周りに多いが、もし打つ必要が無いと強い信念が自分にあるのなら、「もしコロナになっても私が全て責任持って最初から最後まで看病する、絶対に後悔させる結果にしない、だから私の言うことを聞いて」と、電話やメールではなく、直接会って(ここは大切なポイントである)言い切れたなら、止められたであろう。

しかし、もし親がコロナになってしまったことを考えると、「全く、素人のくせに、責任取ると言ったけど、実際お母さん重症化しちゃったよね!」。

などと後から身内や医療関係者に言われたらどうしよう…などと不安になり、結局多くの人たちは、「勝手にしろ」という結果になるのは、きつい言い方ではあるが、実は自分の中に確固たる信念など持って居ないのでは無いだろうか。

誰も受け皿になってくれないのだから、ワクチンで予防するしか無いという孤独が接種へとかり立てて行く。

これが夫や妻の場合、勿論、夫や妻の会社がうるさいから…という理由もあるだろう。しかし、「そんな会社なら辞めろ」と言って、実際夫や妻に会社を辞めさせ、自らも家や車を全て売り、別の場所で生きて行く勇気が無いのなら、それもまた自分の本気度が薄いのと、相手を説得するだけの自分のこれまでの人生における実績と信用度が相手から見ると薄かった、という結果である。相手がわからずやなのでは無く、自分の実力不足と言えるのでは無いだろうか。

下世話な話だが、そうなってしまった場合、気持ちを割り切っていつ病気をするか分からないから、夫や妻が健康なうちに保険金を高車積み上げておくのもありだろう。

私は、mRNAに関しては高齢の母に、副作用の方が怖かったので、全責任は私が持つと言って接種を見合わせてもらった。「(打って何かあれば)俺が責任を持つ」と言った河野太郎氏の言葉より、私は自分の方が信用出来る。専門家や政治家など、一部を除いて彼らは嘘つきばかりではないか。

それでもしも母がコロナになったとしても、そして重症化で死んだとしても、緊急事態宣言中も元気であれば沢山旅行して、孫とも沢山触れ合い、沢山歩いて運動して、美味しいものを食べて、それでもしコロナになったら誠心誠意自分で看病して、それでも死んでしまったならその方がいいという確固たる価値観を持っていたし、母も満足の人生だと思う。実際コロナ禍でも楽しく過ごし、何の不満も無い様子だ。
ここまで言ってもこの件に関して私に医療逼迫どうこうと言うならば、結局症状を楽にするものは薬だけなのだから、病院に行かずともオンライン処方で充分だ。医療逼迫に加担することは無い。

それでも、ICUだのエクモが必要になったら…などと言う人も居るだろう。しかしその確率を見て話しをしたなら先のササクレが癌になる…というのと同等の話である。ゼロではないが、ゼロに近い確率を恐れて人生を無駄にする必要は無い。エクモなど、確率で言ったら一体何パーセントの人が使ったんだ??ということを調べてから物を言って欲しいものだ。

母は87歳なので、いつ終わるか分からないコロナ禍に付き合い自粛させていたら、人生つまら無い終盤で終わることになる。

コロナ禍でも私も息子も他の家族も会って飛沫を飛ばし合いながらしょっちゅう焼肉を食べ温泉に行っているが、母は全くコロナに罹ってない。

むしろ、少々働き過ぎの私や学業と遊びで多忙な息子の方が喉が痛いの、鼻水止まらないだのしょっちゅう言っている。

結局のところ、医療依存とはそう言うコミュニケーションが無い人たちの孤独感が作ってしまった闇であると言える。

日本人の仕事第一優先!という忠誠心こそが、その闇の根底に存在しているのではないか。

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