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「ike」 見ているものが現実をつくる


「ike」  Hawai'iの叡智であるフナの原理の1つ。

……見ているものが現実を作る という意味。


いま、この世の中は、大きく二つに分けられている。

それは、ワクチンを打った人と、打たない人である。

各々個人が差別意識を持っているという意味では全く無い。

11月から、国がワクチンパスポートを作り接種済みの人にはイベントの参加や酒類の提供、旅行の自由を「与える」という…その言い方だけでもかなりの上から目線だが、

接種をしない人は72時間以内のPCR陰性証明を提出する事が同じ権利を得られる条件となりそうだ。

そのPCRは有料で、一回5000円〜2万円の物にすると検討しているらしい。(まだ決定ではない)

これは、接種しなかった人達への罰金とも捉えられる金額。

接種は任意であると言い、任意であるから…という建前を利用して、接種後の副反応はほぼ全て(一部のみ認められた様だが)において因果関係無しとしてワクチンを打った本人の自己責任としているのに、である。

任意だから副反応があっても知らない!。という態度を取りつつも、

でも、打たない人には行動を制限する。

そんな風に自由を奪っておきながら、自由が欲しければ金を払え!と。

こんな事に「はいはい」と全て言うことを聞いていたら、

詐欺をする方も悪いが、騙される方もわるい…という理論と同じで、

人に任意と伝えつつ、しかし従わないなら自由は制限するという矛盾に対し、

何も疑問や抵抗をしないというのは、それは抵抗しない人達も愚かであると言わざるを得ない。



コロナ禍になってから、私は正直ずっと苛立っている。

なぜ、こんなにも、テレビや新聞というオールドメディアのことを人は信じてそれに従うのだろう?と。


マスクから始まり、学校の休校、オンライン化、外食での制限…

少しずつ不安とストレスを与えて行き、その感情が恐怖へと変わるまで続行する。

恐怖とストレスに捉われた人達にはワクチンを打つ二つの動機が生まれる。

・コロナに絶対罹りたくない
・早く元の生活に戻りたい

私は、「人に感染させたく無い」という動機を疑っている。見知らぬ他人の健康などに常に気を配っている人など居ない。それは綺麗事である。
もしその動機があるとしたら、

「感染源となったら自分の責任にされたく無い」とはっきり言えば良いのにと思う。

しかしそれすら、誰が感染源であったかなど、「おそらく」という推定しか出来ず、ウイルスは目に見えないのだから、「あの人」にうつされたと思い込んでいても、駅で入った公衆トイレが原因だと言う事だってあり得るのだ。

もし免疫力が異常に弱ったお年寄りを絶対に死なせなたくないのなら、サナトリウムに移して無菌室で生きてもらうしか無い。
健康な人や普通の外気に触れただけで肺炎になるのなら、その人は元々白血病の治療中患者と同じ位の免疫力しか持っていないことを意味するのだから。


コロナが流行ってる、怖い肺炎になる、人にうつす、42万人死ぬ…

テレビを見れば、その人の現実はテレビの創った恐怖の世界が簡単にその人の現実となってしまう。

人それぞれ思考は違うだろうが、一つ言えるのは、コロナになりたくない恐怖、仕事を失いたくない恐怖、人から未接種だと差別される恐怖、社会が元に戻らない恐怖…etc

いずれかの「恐怖」に基づいかないとワクチンを身体に入れる決心は出来ないと私は思う。



一方で、私の見ている世界は全く違っている。

何一つ対策などしなくて良いのだ。何一つ。

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