詐欺師か救世主か?ドクターHの「何でも治す診療所」

 世の中には医者に見放されてしまった患者というのが存在する。「見放された」わけではないのだろうが、最善を尽くした結果、どうしても治療の施しようがなく、もうあとは病気が悪化するのを見守るしかない……という悲しい状態だ。近所のオランダ人、Jさんはそんな状態にあるうちの一人だ。

 そしてそんな状態の人たちにも「治療は可能」と、西洋医学とは別の方向から治療を施すさまざまなサービスが存在する。科学的に証明されたものではないし、往々にしてそれは「藁をもつかむ」人たちの心境に付け込む胡散臭い商売として敬遠されているが、一部には熱狂的な支持を受けている「ドクター」がいる。オランダ南部のヘルモンドという街で開業するHさんも、そんなドクターの一人だ。

看板なし、ガレージで診療

 私は9月のある日、Jさんの付き添いを頼まれ、一緒にその診療所に行った。普通の一軒家で、「診療所」の看板はどこにも見当たらない。家の前には黒いベンツが停まっているが、決して豪邸ではなく、オランダのごく普通の中産階級が住む家で、前庭は手入れが行き届かずに荒れていた。

 診療所は家のガレージを改装して作られたもので、驚くほど狭かった。外からドアを開けると、そこはすぐに待合室になっていて、Jさんが車椅子で入ると、すでに中にいた中年カップルが椅子を移動させて、1.5mのソーシャルディスタンスを保つために隅っこに身体を寄せなければならないほどだった。

 そして驚いたことに、「診察室」はすぐその奥にあって、ドアが開けっぴろげになっており、中で施術を受けている患者がドクターとぺちゃくちゃおしゃべりしている内容が全部丸聞こえになっている。もっとプライベートで、神妙な感じを想像していただけに、このチープな美容室のような雰囲気にまず面食らってしまった。

 ドクターはHさんと、その娘のDさんの2人で、同時に2人の患者が施術される。待合室のドアから、患者が先生の膝に足を乗せて、先生がつま先付近を指で細かくマッサージしているのが見えた。そして途中からは先生が患者の脇に移動して、「マッサージ」のポジションが肘の辺りに移行する。ドクター2人と患者2人が和気あいあいとおしゃべりしながら、約30分。しばらく待って、Jさんの番が来た。

ロレックスとダイヤモンド

 Jさんは他の人よりも重症だからか、車椅子だからか、彼女の時は別の患者がおらず、一人で診察室を占領した。娘のDさんも手伝って、2人による施術となった。私は脇のイスに座って、先生たちが施術する様子をじっと観察していた。

 Jさんが開口一番、「私、先日転んで頭を打ったんです。コブが痛くてね……」と言うと、Hさんは「ちょっと見せてください」と言って、Jの後頭部を触った。
 「あ~ここですね。痛みを吸い取りましょう」
 Hさんは手のひらをその患部に当てると、しばらくその姿勢を保った。
 「どうです、痛みが取れたでしょう?頭スッキリしたでしょう?」
 Jさんは頷いた。
 「もうねえ……どんどん病気が悪化して、最近は免疫力が下がってきているなあと感じますよ」
 「大丈夫。それなら、免疫力が高まるようにしましょう」
 「自分ではもう何もできないから、毎日うちには人が出入りしているんです。みんなすごく親切なんだけど、時々、親切すぎて、それが息苦しくなる時もあります。この間は近所の人が“おむつを替えてあげようか”って言ってくれたりしたんだけど……」
 「それは、“ノー”って言った方がいい。ここまでが境界線だというのを示さないと……」
 ドクターはJさんに向き合って座り、つま先付近を「マッサージ」しながら、Jさんの話に誠実に答える。先生は60歳前後か。腕にロレックスの大きな時計が光っているが、それ以外はギラギラした感じはなく、ジーンズにつっかけ姿の赤ら顔のオランダ人。明るいポジティブな印象で、初対面の私にもフレンドリーだ。

 娘のDさんはJさんの傍らに立って、こめかみ付近を指で押さえている。しばらくしてお腹が「グー」と鳴ってしまって、彼女は恥ずかしそうに笑った。30歳ぐらいだろうか。笑顔がチャーミング。赤みがかったブロンドの髪は長く、ぴったりしたジーンズから伸びる足も長い。典型的な普通のオランダ人といった容貌で、服装も典型的なカジュアルルックだが、その指には大きなダイヤモンドが光っていた。彼女はしばらく手伝うと、「お昼食べに行ってくる」と言って、別の部屋に行ってしまった。

奇跡のマジックハンド

 ドクターは私が興味津々に眺めているので、解説しながら施術する。
 「神経を刺激するんですよ。ちょっと足を動かしてみますよ」
 ドクターがある個所を指で押さえると、Jさんの足がピクッと上に持ち上がった。
 「痛い!」
 Jさんは思わず声を上げたが、ドクターは慌てない。
 「大丈夫。痛くないでしょう!心理的に怖いだけ。もう一度行きますよー」と言って、またある個所を刺激して足を上げさせた。
 今度はJさんは「痛い」と言わなかったが、不安そうに自分の足を眺めている。ドクターは別の箇所を刺激して、今度は膝を上げさせることにも成功した。私は思わず「すごい!」と声を上げてしまった。

 JさんはMS(多発性硬化症)という日本ではあまり聞かない病気を患っている。アジア・アフリカよりも欧米の方がよくみられる難病で、20~30代の女性がかかるケースが多い。神経組織が損傷し、脳からがの情報が身体にうまく伝わらなくなってしまい、身体の感覚や運動能力に支障をきたす。症状が出ない「寛解期」と症状が出る「再発期」を繰り返しながら、普通は何十年もかかって症状が悪化するものなのだが、Jさんの場合は症状が出始めたのが60台と高齢な上、病気の進行が恐ろしく速く、発症から1年足らずで車椅子生活になってしまったのだ。今は両足と左手がほとんど動かせない。

 ドクターは今度は、Jさんの左側に移動し、肘のあたりの神経を刺激し始めた。Jさんの左手はもうほとんど動かない。しかし、Hさんがある場所を刺激すると、人差し指がピコピコと動き始めた。

 「今度は親指を動かしましょう」

 ドクターが別の箇所を刺激すると、今度は親指がピコピコした。Jさんは微笑んだ。

 「神経も使わないとダメになるんです。こうやって定期的に刺激を与えることで、その働きがだんだん戻ってくるんですよ」

 ドクターは私に向かって説明した。
 私は神妙にうなずいてから聞いた。
 「あなたは中国でこれを学んだんですか?」
 「そうです」
 「あの~先生が施術しているところを写真に撮ってもいいですか?」
 「え?私の写真?いや、それはダメ」

 すると、Jさんが補足した。
 「ここの診療所、インターネットで検索しても出てこないわよ。どこにも宣伝していないのよ」
 「そう、全部口コミです。もう予約でいっぱいですよ。新規の患者はほとんど取れません。ブラジルからアメリカからアジアから、もう世界中から患者さんが来るんですから」

 先生はそう言うと、診療代を受け取り、金庫ボックスにしまった。診療代は一律税込みで50ユーロ(約6300円)。現金のみで、レシートはない。Jさんは2週間後に次の予約を入れ、私たちは診療所を後にした。待合室にはすでに次の患者さんが2人、待っていた。

一筋の希望の光明

 帰りのタクシーでJさんに聞いた。
 「ねえ、あの“マッサージ”は気持ちいいの?」
 「ぜーんぜん!すごく痛いのよ。まるで針で刺されているみたいに。今でも針の後の感覚が残っていて、足のつま先付近に針の穴が開いているみたいな感じがするわ」

 私は今日の診療所の様子を見て、実はみんな先生とおしゃべりできたり、気持ちよかったりするからここに来ているのではないか……と思っていたので、Jさんのコメントには驚いた。気持ちよくないんだ!

 私は今日の感想を正直に述べた。
 「神経を刺激すれば、反射的に手足が動くっていうのはそんなに不思議なことではないような気がする。でも、それを定期的にやることで、いつも使わない筋肉とかも刺激されて、トレーニングになっていいのかもね。あと、ここに来る人達は先生に愚痴を聞いてもらえたり、ポジティブコメントをもらえたりするのが嬉しいんだと思う。『治しましょう』って言ってくれる」

 すると、Jさんは応えた。
 「彼はとにかく自信満々なの。私の病気の場合、完治は無理だけど、歩けるようにはしたいって言ってるわ。病院では誰も私の足を動かしたりできなかったけど、彼は確かに“何か”ができるわね」
 と言った。そして、
 「頭のコブは先生が触った途端に痛みが取れたわ」
 と付け加えた。
 私の頭の中ではロレックスの時計や娘の指のダイヤモンド、質素な自宅、黒いベンツ、荒れた前庭、現金の詰まった金庫箱、そしてJさんのピコピコした人差し指が走馬灯のように駆け巡った。

 Jさんが治療を受けた総合病院の主治医は、この地域で最高の神経科医として有名だったらしいが、彼は最近、神経科医としての限界を感じ、40台半ばにしてそのキャリアをストップしてしまったのだという。それほど神経系の病気というのは治らないものが多いらしい。

 病気が進行して、身体がどんどん不自由になっていくのをやり過ごすしかないJさんにとって、一瞬でも手足がピコピコ動くのを体験できるのは、暗黒の人生に差し込む一筋の希望の光にほかならない。それが1回50ユーロで味わえるのなら、ブラジルからもアジアからも予約が殺到するのは容易に理解できる。切実すぎる需要に満足した供給を与えているなら、それを誰がとがめることができようか?

 Jさんの家族や友人からは「そんなの、やめなさいよ」という忠告も少なくない。Jさんも完全にHさんを信頼し、全希望を託しているわけではない。私はなるべくポジティブな気持ちで、この状況を見守っていきたいと思っている。

 

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