山からの贈りもの
窓に差し込む強い西日が、一般的にあまり好まれないと知ったのは、かなり大人になってからのこと。実家は、家の大きな窓が西側にむいており、その窓から毎日、天王山を含む京都西山の山並みをながめていました。沈む夕日、美しい夕焼け、西山のふもとならではの暮れていく町の風景をあきることなくながめてきました。
西山は毎日確実に、おおきく色や形を変えました。春夏秋冬の色だけではなく、雨の山、雪の山、くもりの山。雲にかくれたり、霧がのぼったり、深い陰影をおとしたり。
朝起きて、今日の西山を見るだけで、昨日とは違う新しい一日が始まることがわかる。それだけで嬉しくて、自分が生きていることを感じられる。小学生の頃から感じていたこの感覚はほとんど、無意識レベルの喜びの感覚です。それはきっと、"自然とつながる"、という感覚。
ふだん、特に自然にふれていたりしていなくても、その感覚はずっと私の中にあり、感性を育み、心と身体の健康を支えてくれていました。
人がつくったビルや道路は、毎日それほど変わらないのに、山はなぜこんなに劇的に変化するのだろう。あらためて考えると、山が生きているからだと気づきます。当たり前ですが、私たちの眺めるこの”山”は、森の木々やそこに生きる虫、動物、すべての生き物の集合体です。
自然とつながっているというのは、多くの生き物と一緒に、自分も地球の一部として生きているという感覚。距離ははなれていても、山からそんなエネルギーをもらっていました。
毎日眺めていると、遠いのになぜか、一本の木が枯れてしまったことにも気づけます。小さな地滑りや植生の変化にもなんとなく気がつきます。それはきっと山とじぶんが同じ生きもののように一体となっているから。
しかし大人になると、忙しくなったり現代の生活で、山を眺めることもなくなり、自然とのつながりがうすれていきます。気付かないうちに、心のなかにためてきた大きな泉がカラカラに乾いていく。私は、その泉が乾ききって悲鳴をあげてからやっと、じぶんがどれだけ病んでいたか気付きました。そしてやっと、はじめたことが散歩とスケッチでした。その楽しさの源は、絵を描くことで自然とつながり、嬉しくてやさしい気持ちになれることです。乾ききった泉に少しずつ水がながれはじめていく。もしかしたらその感覚は、幼い頃から私を育んでくれた西山が、私に与えてくれていたと同じ感覚。心の水をもう一度ためなおすために、絵を描いているのです。
みんなにとって一番身近なすぐそばの山。山は様々な役割があり、水を育み、空気を生み出して、物理的な意味でも私たちの生命の源となっています。現代の暮らしでは、その価値が簡単にすてさられてしまうこともあります。離れていても山を感じることのできる、町から山がみえるという眺望さえも、ひとつの建物や開発によって、いとも簡単に失われていきます。
毎日変わる西山が、変わらずそこにあり続けてくれること。そんな毎日が続くことを願っています。
読んでくださってありがとうございます。植物を暮らしの中で楽しむ方法を、絵や文章を通して発信していきたいです。それが回りまわって、”自然”と”人”を守ることに繋がればと思います。まだまだ未熟ですが、サポートしていただけると嬉しいです。