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ノスタルジアの罠

ノスタルジアー昔を振り返って懐かしむ行為

カーテンが微風に揺れる窓辺に肘つく主人公。昔の映像が急にセピア色で流れ出す。「あの時はよかったなあ」。。。「なぜ僕は彼女の元を去ってしまったのだろう』。。と思いに深くふける彼。 テレビドラマでは、よくこうしたノスタルジックな光景が出てきます。ノスタルジアは、見ている人達が、主人公と一緒になって昔を振り返って懐かしむように設定されていて、次に起こってくることとのコントラストとして使われるようです。

 「なになに丁目の夕日」のように、明らかにノスタルジア映画もあり、あれを見て、「懐かしいなあ~!テレビがない時ってこんなんだったね。人と人の関わりあいも深くて、今とは全然違ってよかったね~。。。」と思う人は多かったのではないかと思います。ここにも、「今と比べて昔はよかった」感が漂っています。

何年か前に流行った「レトロ」ブームなんて、まさにノスタルジアです。服装、髪型、家具、小物、家に到るまでレトロがもてはやされ、ジュークボックスやサイフォンコーヒーを置くお店や、文字のレタリングを昔風にして雰囲気をだすお店もありました。ノスタルジアって「癒される」んですよね。

 ドラマや物がなくても、ノスタルジアの瞬間は、日常生活で、五感を通して何度も私達に訪れます。懐かしい味、懐かしい音、懐かしい匂い、懐かしい触り具合。それらを感じている時、私たちは、ある「時と場所」にトリップします。「あの青春の日々、頑張っていたなあ俺は。」グッと胸に込み上げてくるものもあるでしょう。ノスタルジアには、甘い魅力があります。昔の写真や音や味などを再体験することによって、ヴァイタリティを取り戻したり、元気になったりすることもあると思います。

でも。。。ちょっと待ってください。

「そこで実際に今起こっていない昔を想像して、その時の気分に浸る」のがノスタルジアだとすれば、ノスタルジアを求め、それに浸ることは、果たして生きて進化していく生命体の行為なのでしょうか?私たちの細胞は日々生まれ変わり、私たちは今、1秒前のところにはもういないのです。

さらに、過去に起こったことを思い起こす時、今現在の自分の記憶は、その時に起こったことではなく、幻影に過ぎない。私は海外に住んでいて、日本のことをノスタルジックに思うことが時にありますが、いざ日本に帰ってみると、美しく自分の中で作り上げた幻影は跡形もなく、リアルな現実に直面することがよくあります

ノスタルジアを追い求め続けると、何が起きるか? 「あの時のあれがよかったから、もう一度お願い。」となりますね。単純な例で言えば、ヘアカットなんてそうです。あの形が好きだったから、もう一度お願い。写真まで何枚も持って行って。でも、それは絶対に無理なんです。前のヘアカットと全く同じ形を求めていると、美容師さんが少し違った新しい形にしてくれても、その良さが見えない。映画スターなんかもそうですね。同じ役ばかりを何十年もやり続けている役者さんは、観客のノスタルジアを満足させる義務があるため、他の役に踏み出せない。パフォーマンスにノスタルジアを求めて行く方もいらっしゃいます。「あの人がああいう風なパフォーマンスをするのを見たいんだ。」こうしたノスタルジアが成り立つためには、パフォーマーを含め、その場で今起こっていることを全て切り捨てなければなりません。ノスタルジアを満足させようと、自分が持つ過去の幻影に照らし合わせて見たいところだけを切り取るので、空気感や、パフォーマーの中で起こっている一刻一刻の変化など、その場で実際に起こっていることは二の次になってしまうのです。

ノスタルジアー昔を振り返って懐かしむ行為。甘い魅力。そのために支払う代償は限りなく大きいように思えてなりません。

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