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ジャン・ボルランのNY住所は?

昨年が100周年だったバレエ・スエドワ。

バレエ・スエドワとはスウェーデン・バレエ団という意味のフランス語ですが、スウェーデン貴族ロルフ・ド・マレが主宰し、シャンゼリゼ劇場をその拠点として借り上げ(‼)活動した前衛的なバレエ団でした。

そのバレエ団の唯一の振付家、最強のスターがジャン・ボルランというスウェーデン人のダンサーでした。

一人でバレエ・スエドワ全期間24作品すべての振付を手掛け、主役を踊り、毎日のダンサー達のレッスンまで行うという目まぐるしい日々を過ごしたのです。

その重圧からアルコールと薬物で体調を崩し、またマレとしても想像以上の資金を必要とした活動を支える苦労もあり、1925年にバレエ・スエドワは解散したのでした。
(シャンゼリゼ劇場の契約は7年間だっため、残りの2年間、マレはこの劇場でジョゼフィン・ベーカーのパリ・デビュー、コクトーも愛した女装のパフォーマーバベッドのショーなどを手掛けました。)

一方ジャン・ボルランはパリでバレエ学校を開き、リサイタルも行いましたが、彼を応援するパトロネスの力もあり、新天地アメリカへ旅立ちます。

アメリカで住んでいた場所は14East 60 th, New York

maretoborlin - コピー

マレがボルランに出した最後の手紙の宛書


ふとグーグルのストリートビューで見てみると、道を挟んで正面にあるのが、昨年97年の歴史に幕を下ろしたことが報道されたバーニーズニューヨーク。少し行けば長らくバレエ・リュスの『三角帽子』の背景幕が飾られていたプラザホテル、そしてセントラル・パークもすぐという立地です。

お部屋によってはバルコニーからセントラル・パークも見えるのかもしれません。彼が最期の日々を過ごした空間がどんなだったのか、気になります。と、いうのもこれから!という時に肝臓病を悪化させ1930年に37歳で急逝してしまったのです。

この写真の手紙がボルランの元に届いた時は容体が悪く、開封されぬまま死去したという何とも切ないエピソードの残るものなのです。
家具一式はその後マレの元に届けられ、マレが創設した国際ダンスアーカイヴで再現されています。
そして恋人だったボルランの死去を悼み、彼の名前を残すために世界初の国際ダンスアーカイヴ創設、そして国際振付コンクール(子供ダンサーコンクール含む)をマレが手掛けたのです。その想いの深さを感じます。

行かれるようになったら長らく行っていないアメリカでバレエ・リュスの足跡を追う旅をしなくては、と思っているのですが、このボルランが最期を過ごした場所にも訪れたいと思っています。

ありがとうございます。 欲しかった本やプログラムを購入し、Ballet Collectionの充実に励みたいと思います!