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マシュー・ボーン版『赤い靴』の中のバレエ・リュス~3~

マシュー・ボーン版『赤い靴』好評ですね。
昨年の6月のはずだった公演、いつか実現して欲しいな、と願うばかりです。

さて、その3弾をお届けします。

それが1でも良かったのでは?という気がしなくもない、重要人物レールモントフ。もちろんこのモデルはバレエ・リュスの主宰者セルジュ・ド・ディアギレフです。

1916_Diaghilev_ポートレート

この名前表記、セルゲイ・ディアギレフというケースもあって、どうなっているの?と思われる方も多いよう。
彼はロシア貴族です。ロシア表記だとセルゲイ・パーヴロヴィッチ・ジャーギレフとなります。ですが、本人が依頼して使っていた名刺には「Serge de Diaghilev」という表記になっています。
最初にヨーロッパを訪れた時に自分が貴族だということを相手に説明せずに伝え、名前を憶えてもらうため、発音しやすいように変えたためです。
(この名前の綴りや大幅な変更はバレエ・リュスでしばしば行われました。一番大きく変わったのはアントン・ドーリンかもしれません。本名はパトリック・ヒーリー・ケイですから全く違う名前です…)

ロシアの友人達の中には「de」をつけてフランスでロシア貴族を売りにする姿勢を馬鹿にしたり、下品だと思い茶化す人もいましたが、実際パリで「ロシア貴族」といういわばブランドが生きたのですから、彼の先見の明が感じられるエピソードの一つです。

ただ、その後1909~1929年のバレエ・リュスの活動期間にはプログラムやポスターの表記がSerge de Diaghilev/ Sergei Diaghilew/ Serge Diaghileffと様々にゆれています。バレエ・リュスの名前がその国々によって表記ゆれがあったのと同じですね。

私は彼が名刺に最初に刷った「セルジュ・ド・ディアギレフ」(ドは原稿文字数に応じてつけたり付けなかったりしていますが…)を使っていますが、ロシア人であるという事を伝えたいという意図でセルゲイ・ディアギレフとされる方もいらっしゃいます。
個人的にはロシア語発音とフランス語発音が混じるので好きではないかも、ですが、本人も当時容認していた表記ですから間違いではありません。

と、つい名前の事が長くなりましたが、良くご質問を受けるので。

そのディアギレフ、レールモントフに反映されているのはどんなところなのか。ディアギレフも愛と舞台のどちらかをダンサーに選ばせたのか?

ディアギレフの恋人ニジンスキーは1913年ロモラ・ド・プルツキーと南米ツアーの途中で結婚してしまいます。不思議とニジンスキーはそれでディアギレフを失うとは思っておらず、再三『ヨゼフ物語』の楽譜はまだか?と送った電報が残っているのが切なくもあるのですが、ディアギレフは当然激怒、そのままツアー後のクビを宣言します。(実際には第一次世界大戦の戦争捕虜からの開放にディアギレフが尽力し、1917年にもバレエ・リュスには出演しますが…)

スターと振付家を同時に失ったディアギレフはバレエ団を存続させるために1914年、新しいスターそして振付家を探しにロシアに行ってレオニード・マシーンを見出すのです。

このレオニード・マシーンは映画『赤い靴』(1948年製作)の靴屋としても登場している『赤い靴』と関りの深い人物でもあります。

もっともマシーンがすぐに振付家として仕事ができるわけはありませんから、ニジンスキーの振付家登用に怒ってバレエ・リュスを去ったミハイル・フォーキンにも再度戻って来てくれるよう懇願(文字通り懇願したエピソードが残っています)し、一時的に戻っています。

つまり、レールモントフはダンサーに踊りか愛かを選ばせるという事をしていますが、ディアギレフは自分の愛を裏切った人をバレエ団から追い出したというわけです。

ディアギレフは恋人運にはあまり恵まれなかったとも言えそうで、その後の振付家=恋人はことごとく女性との恋や結婚でバレエ・リュスを去っています。

例外は二人だけ、バレエ・リュスに参加する前から振付を手掛けていて後にニューヨーク・シティ・バレエ団を創設するジョルジュ・バランシン(ロシア語名はゲオルギスキー・ヴァランチヴァーゼ、NYに渡ってからは英語読みでジョージ・バランシンと名乗っています)、そしてニジンスキーの妹ブロニスラワ・ニジンスカだけ。

ディアギレフはバレエ団の成功によって芸術としてのバレエを生き返らせた人物ですが、個人としては恋人に裏切られ続ける人生でもあったのです。

とはいえ、そのためにバレエ団に新しいダンサー・振付家が入ってき続けたわけですから何とも複雑な気持にもなります…。恋と仕事の成功の両立の問題とも言えるかもしれませんね。そうすると形は違いますがレールモントフの姿と重ならなくもないかもしれません。

忘れられがちですが、映画『赤い靴』が公開された1948年、バレエ・リュスの活動を引き継ぎたいと結成され、実際にオリジナルの衣裳や美術を引き継いで踊ったバレエ・リュス・ド・モンテカルロが活動を続けていました。
このバレエ・リュス・ド・モンテカルロも分裂したり、ダンサーが両方に出演したりなかなか複雑なのですが、このバレエ団の最初の主宰者だったのはワシリー・ド・バジル大佐とルネ・ブルムでした。ワシリー・ド・バジル大佐は今の言葉で言えば「キャラがたった」存在でもありました。

ディアギレフが「天才と天才をで合わせる天才」でありながら興行主的なセンスも持っている人物だったのに対してバジル大佐がもう少し興行主寄りの存在でした。そうした人物像もまたレールモントフに織り込まれています。

決してバレエ・リュスのディアギレフそのままのイメージでもないところは知れば知るほど楽しい…という感じでしょうか。

バレエ・リュス・ド・モンテカルロも重要な面白いカンパニーなのでまたご紹介していかれたらと思っています。


バレエ・リュスについて知りたいな、と思われましたら、3月にお話しをしますのでご参加下さい。
(初の試みで2回同じ内容時間違いの開催です。ご都合の良い方をどうぞ♡)

3月21日(土)18:30~20:00はこちらから(登録を間違えて21:00までとの記載になってしまっております。申し訳ありません。)

3月31日(水)14:30~16:00はこちら





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