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緊張感にあふれた“偉大な音楽”〜【Opera】東京・春・音楽祭 リッカルド・ムーティ指揮『マクベス』(演奏会形式)

 東京・春・音楽祭の大きな目玉であるリッカルド・ムーティによる「イタリア・オペラ・アカデミーin東京」は、客席に人を入れずオンライン配信のみで4月6日〜16日にかけて実施。そのアカデミーで鍛えられた東京春祭オーケストラとイタリア・オペラ・アカデミー合唱団を率いてのヴェルディ『マクベス』初日は、興奮と感動の一夜となった。若手揃いのメンバーから成るオーケストラが、「音楽がドラマを描き出す」というオペラの根本をこれほどはっきりと描き出すことができたのはひとえにムーティの指導と指揮の賜物であるのはいうまでもない。それぞれのパート、それぞれの楽器の音色が細部まではっきりと聴こえてきて(バンダの陰影ある演奏!)、ああ、ここはこういう情景になっているんだな、ここにはこういう感情が渦巻いているのか、ということがオーケストラの響き「だけ」からも十分に感じることができた。それは演奏会形式というスタイルによるところも大きいだろうが、通常のオペラ公演ではなかなか出会えないほどのオーケストラのパフォーマンスだったことは間違いない。

 音楽は一貫して緊張感にあふれ、それは『マクベス』という作品のもつ特徴(と同時にヴェルディの作品に共通の特徴だろう)であることがはっきりとわかる。そのことに異を唱えるつもりはまったくないが、緊張感に貫かれたこの”偉大な音楽”にほんの少しだけだが違和感を抱いたのも事実。仮にこれが劇場で行われる通常のオペラ公演でオーケストラがピットに入っていたとしたら、どこかに「遊び」が生じるのではないか。手を抜くという意味ではない。セットがあり、演出があり、演技と動きのある「舞台」であれば音楽「だけ」を聴かせるわけにはいかない。そこには自ずと緊張と弛緩が生まれるものだし、「舞台=オペラ」というのはそのようにして成り立っているものだからだ。

 例えばそれは、硬質な女声合唱に表れていたかもしれない。『マクベス』で女声合唱は狂言回し的役割を担う魔女たちを歌うが、魔女たちはただ不気味でおどろどろしいだけの存在ではない。そこはシェイクスピアなのだから、どこかに滑稽さやアイロニカルな要素もほしい。残念ながらこの日の女声合唱はあまりに整然としすぎていて、そこに人々の運命を翻弄する魔女の姿は見えなかった(男声合唱が演技力に優れ非常にオペラ的だったのと対照的だ)。音としてはきっちり揃っていて美しかったのだが、舞台ではそれだけではダメなのだと思う。

 とはいえ、この違和感は本当に微かなもので、無視しようと思えばできるほどのものなのかもしれない。当夜のパフォーマンスが「オペラ」ではなかったのかといえばそんなことは決してないし、オーケストラから生まれたあの渦巻くドラマトゥルギーを私は十分堪能した。ただ、それは「劇場で体験するオペラ」とは違うものだったというだけだ。

 ソリストは演技力のある人が揃っていて聴きごたえ十分。特にタイトルロールを演じたルカ・ミケレッティはコントロールされた弱音に込められた感情の横溢が秀逸で、そこからフォルテへの転換が実にドラマティック。マクベスという男性の持つ繊細さ、野心、欲望、夢、恐れ、猛々しさ、弱さといった要素が見事に声によって表現され、実に魅力的なマクベスだった。マクベス夫人のアナスタシア・バルトリは迫力ある高音とマクベス夫人の狂気を見事に表現してみせた一方、特に中音域のフレーズの入りで音程をずり上げる癖がどうにも気になってしまった。そのせいでピッチが甘くなるところがあるし、ずり上げた後で膨らませようとするとどうしても響きが前に固まってしまう。高音が素晴らしいだけにもったいないと感じた。

2021年4月19日、東京文化会館大ホール。

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