ヴィオレッタの悲劇とは何か?〜【Opera】ウィーン国立歌劇場『ラ・トラヴィアータ』(配信)
ウィーン国立歌劇場のサイモン・ストーン演出の『ラ・トラヴィアータ』を配信で観た。舞台は現代で、ヴィオレッタはモデルでSNSのインフルエンサーという設定。前奏曲ではヴィオレッタのTwitterやインスタの画面が出てきて、自撮りをアップしまくったり、具合が悪くなって医者(グランヴィル)とやりとりしたりしているのが映し出される。確かに、この話を現代に移し変えるとしたらこの設定はありだなとは思うものの、「モデルで炎上しがちなアルファ・ツイッタラー」では、ヴィオレッタに刻印されているスティグマが極端に弱い。「SNSで炎上」、そりゃ怖いけれど「19世紀に娼婦である」事に比べたらスティグマの大きさが全然違う。
だから、ジェルモンがヴィオレッタとアルフレードとの仲を引き裂いてしまうという顛末に説得力がない。そりゃ、田舎のおっさんとしたらそんな派手なデルモなんかと付き合ってほしくないのはわかるけれど、そのオヤジの言い分を21世紀のスーパーモデルたるヴィオレッタがすごすごと受け入れちゃうのはあり得なくないか?「じーさん、うるせー」ぐらい言ってとっととアルフレードと2人でどこにでも行けばいいじゃん、っていうのが今の感覚だと思う。だってスマホあるんだし。19世紀みたいにパリから出られない訳でもあるまいし。だから2幕以降、ヴィオレッタがどんなに嘆き悲しんで見せても、「いやー、あんた、自分でなんとかできるでしょう」としか思えない。冷たいかな?
念の為いっておくと、私、『椿姫』大好きなんですよ。オペラの登場人物に自分を例えると誰?と問われて真っ先に「ヴィオレッタ!」と答えたくらいに昔から好き。ヴィオレッタという女性の「生」が音楽によって見事に描き出されていく。これぞオペラ、だと思う。そしていつ観てもヴィオレッタの運命に対しては涙を禁じ得ない(だからオペラ史上最大の悪人はジョルジョ・ジェルモンだと思ってるw)。なのに、この演出ではそれがまったくなかったのだ。
つまりこの読み替え、やっぱりヴィオレッタが背負っているものの「重さ」が等価交換できていないという点が問題だと思う。だって『ラ・トラヴィアータ』という作品は、タイトルの通り「道を踏み外した女」であるヴィオレッタの道を踏み外してしまったが故に背負う運命の残酷さ、がテーマであるわけで、「モデルでネットのインフルエンサー」というだけでは到底「道を踏み外している」とは言えない。例えば、モデル仲間でクスリをやってるとか、枕営業しまくってるとか、そういう描写がないとクルティザンとは比べ物にならないと思うよ(2幕のパーティの場面が多少変態チックではあったが、あんなの別に罪でもなんでもないし)。それとも、そこは私が読み取れなかっただけ?だとしたらごめんなさいだけど。
それと、そもそも論として、娼婦をモデルに読み替えるのってポリコレ的にどうなの?以前、どなたかが「高級娼婦は今でいえば女子アナ」ってつぶやいていて仰天したのを覚えているけれど、それに近い感覚ではないかと思うのだが、その辺りはウィーンでは問題にならなかったのだろうか。
映像を駆使してどんどん場面が変わっていく第1幕や、第3幕でヴィオレッタが過去の場面を巡ることで回想している(んだよね、あれは?)ところなんかは、なかなか面白かっただけに残念な感じが否めない。もちろん、プレティ・イエンテのヴィオレッタ、ファン・ディエゴ・フローレスのアルフレードは素晴らしい歌唱だった。それは本当に聴きごたえがあったので聴いてよかったとは思うけれども。
2021年3月13日、ウィーン国立歌劇場公式サイトにて視聴。
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