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【Opera】東京二期会『こうもり』

 観ている間に、背筋がゾクッとする瞬間が何回あったことか。アンドレアス・ホモキ演出の二期会『こうもり』は、従来の「楽しくて肩のこらないウィンナ・オペレッタ」というこの作品のイメージを鮮やかに変えてみせた。

 といっても、いわゆる「現代的読み替え」ではない。時代はオリジナルの1870年代のまま。衣裳やセット(ソファやテーブル・セット、クローゼット、時計などが所狭しと並んでいる)も時代設定に忠実。では何が「新しかった」のか。それは、この作品の時代背景と大いに関係がある。『こうもり』が初演されたのは1874年のウィーン。この7年前に、オーストリアはハンガリーとの間に「アウグスライヒ」と呼ばれる条約を結んでいる。これは、オーストリア皇帝がハンガリー王を兼任する代わりに、ハンガリーに自治を認めるというもの。「オーストリア=ハンガリー二重帝国」の始まりである。中世から続いたハプスブルク家の支配が徐々に揺らぎ始めていたことを物語るこの体制は、第一次大戦まで続く。つまり『こうもり』の時代は、ハプスブルク帝国の凋落の始まりといえる時期にあたるわけだが、その影響はまだ表立ったものではなく、人々は陽気に楽しく日々を送っている。「すべてはシャンパンの泡のせい」と言ってしまえるほどには。

オルロフスキー:青木エマ、ファルケ:宮本益光

 そんな中、今回のプロダクションにおける大きな変更は、第1幕と第2幕を続けて上演し、第2幕フィナーレの途中で休憩をはさんだことだ。「シャンパンはすべての王!」と讃える合唱のあとで休憩になり、後半はヨハン・シュトラウス2世が書いたポルカ「ハンガリー万歳」をオーケストラが奏でることから始まる。この時客席の照明はついたままだ。つまり客席に座る私たちは、そのまま舞踏会の客となる仕掛け。そして幕が上がるとファルケが例の「私たちは兄弟姉妹になりましょう」を歌う。そしてファルケも、ロザリンデ(仮面を外している)も、アイゼンシュタインも、アデーレも、酔っ払った舞踏会の客たちも、みんなが客席側を向いて立つ。およそ「シャンパンの酔いに任せた」楽しさとは程遠い、むしろ蒼白な表情で、あの『こうもり』の中でもっとも美しいといわれる合唱「ドゥイドゥー」が歌われるのだ。それは、まさに、舞踏会の客となった私たちに、「いつまでも仲の良い兄弟姉妹でいられるのか。あなたたちの現実はそれほど楽観的なのか」という問いを突きつけているとしか思えない。

アイゼンシュタイン:又吉秀樹、ファルケ:小林啓倫、ロザリンデ:嘉目真木子、イダ:辰巳真理恵、アデーレ:三井清夏

 従来の第2幕のラストに当たる場面では、一人酔いから目覚めたアイゼンシュタインが「ここは一体どこなのだ?」といった風に、半ばパニックに陥った様子であたりをウロウロと歩き回る。この時、舞台上に置かれた家具は倒れ、その間に寝転がっている舞踏会の客たちが、一瞬死体のように見える。「明日も明後日もこんな風に愛と酒の日々を送りたい」と歌っていた人々。しかし彼らの「明日」は、決してそのように続かないということを私たちは知っている(第一次大戦の敗戦と共にハプスブルク帝国は崩壊その後はナチス・ドイツによる併合という歴史が待っている)。その崩壊の歴史を、今このオペレッタを観ている私たちの社会が辿らないという保証はどこにもない。そのことに気づかされた時、音楽がとてつもなく恐ろしくきこえてきたのだ。

 このプロダクションはベルリン・コーミッシェ・オーパーで初演されたもの。コーミッシェ・オーパーといえば、19世紀末から両大戦間にかけてメトロポール・テアターとして諷刺的な演劇が多数上演された劇場だ。特に両大戦間、ワイマール共和国時代のベルリンでは、時事諷刺は芸術の重要なテーマだった。フランスで生まれた芸術キャバレーがこの時代のベルリンで大流行し、そこから時事諷刺のシャンソンが多数生み出されたことを知れば、メトロポール・テアターがそうした潮流の中心に位置していたことも頷ける。つまり歴史的に、この劇場はドイツの諷刺芸術の一翼を担ってきたわけで、その精神がホモキ演出の『こうもり』には脈々と息づいているのである。

 物語の最後は、ファルケが仕掛けたお芝居だったということがわかり、「すべてはシャンパンの泡のせい」と言って大団円となるのだが、ホモキはさらにもうひとつ仕掛けをした。セットは第1幕と同じ配置に戻り、下着姿でテーブルでワインを飲むアルフレード、それを見て困り果てるロザリンデ、伯母さんの見舞いに行きたいと嘘泣きをするアデーレの3人を残して幕が降りる。つまり、すべては最初のまま、何も解決していないということを示唆するのである。色々な仕掛けが施され、嘘と本当が入り混じるドタバタ劇が演じられ、結局最後はすべてが収まるところに収まったはずのドラマは、実は虚構だった。現実はそんなにうまい具合にいくはずもない、とでもいうように。そこで私たちは、何度目かの痛みを味わわされる。私たちが生きる現実とはどんなものなのか。飲んで、騒いで、愛を語ればそれでいいのか。現実から目をそらしたままでは何も解決しないのではないか。いや、解決しないどころではなく、その先に待っているのは恐ろしい悲劇ではないのか。

 誰にでもそれとわかる「読み替え」をしなかったかわりに、ホモキがみせたのは、現代という時代が内包している大きな課題だ。そのやり方の鮮やかさに唸るほかない。これは『こうもり』というオペレッタを「知っている」と思っている人こそ観るべきプロダクションだった。そこにはドイツのムジークテアターが連綿と受け継いできた異化効果の見事な実現がある。一方で、これが初めての『こうもり』という人には、その意図が少々わかりにくかったきらいはあるが。

ロザリンデ:澤畑恵美、アデーレ:清野友香莉、アイゼンシュタイン:小森輝彦

 歌手陣は2つの組共に大健闘だったと思う。アイゼンシュタイン小森輝彦組はベテランを揃え、その達者な演技力でホモキの意図を再現することに完全に成功していたと言っていい。小森組があくまでも大人のドラマだった一方で、又吉秀樹組は若手歌手が多かったために、少しだけ弾けた印象。両組共に通しでフロッシュを演じたイッセー尾形は、出てきた瞬間から会場を掌中に収め、笑いの渦に飲み込んだ。さすが一人芝居で世界を制服した人だけのことはある。本場ウィーンのような政治諷刺は控えめだったが、このシーンの笑いが面白ければ面白いほど、ラストのチクリとした痛みが効いてくる。その点で、イッセー尾形の演技は完璧だった。

フロッシュ:イッセー尾形

 最後になったが、本場ウィーン・フォルクスオーパーでも『こうもり』を振っている阪哲朗の指揮なくしては、ホモキ演出の成功はなかったと思う。序曲の軽やかで華やかな風味はもとより、アップテンポで紡いでいく音楽が現代的なドラマの運びを大いに助けた。今回、セリフが日本語、歌がドイツ語で上演されたが、そのつなぎ目がいかにも自然に聞こえたのはひとえに阪の采配のなせる技だろう。イッセー尾形のアドリブに応えてオケを鳴らしたり、ウィーン仕込みの粋なパフォーマンスも楽しめた。

 オペレッタの印象を変える、こうしたヴィヴィッドでアクチュアルな舞台を作り出した二期会には素直に拍手を送りたい。ぜひレパートリーとして再演、再再演をしてほしい。

2017年11月22〜26日、日生劇場。

写真:伊藤竜太(Lasp Inc.)

 

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